『フラクタル』ヤマカンが身を賭した理由とは

はじめに

「ボーイ・ミーツ・ガールの冒険活劇」


フラクタル』は、その言葉に違わぬ形でスタートを切ったように思える。
王道にも模倣にも思われ、ともすれば唾棄されてしまうような展開であったかもしれない。しかし、そうであるが故、監督である山本寛(ヤマカン)の作品に込める「願い」や「祈り」とも言い得るような思いと決意が浮き彫りになったように思える。
彼は作品のリリースに際し「声明」を発表している(フラクタル-FRACTALE-公式サイト-)。昨今のアニメや、それを取り巻く様々な状況に対し彼が何を思い、何を願い、自分に何が出来るのかという自問自答の苦悩の果てに出した答えが『フラクタル』には込められている、そう考えている人も少なくないだろう。

「出会い」としてのラピュタ

キービジュアルや番宣スポットから、そして作品を見ても尚感じられたであろう「ジブリ感」、特に「ラピュタ感」。『天空の城ラピュタ』とスタジオジブリについて、ヤマカンはこんなことを言っている。

中学一年から二年に向けての春休み(だったはず)に私がTVをつけて偶然OAされていた『天空の城ラピュタ』。

これが私の人生を変えた。

本当に大袈裟な表現ではなく、それからは宮崎駿の背中を必死に追い続けた20数年だった。彼に一歩でも追いつこうと、無我夢中で走り続けた(そのせいで今迷子になっているのだが)。

(中略)

ジブリの「呪縛」から未だ逃れることのできない自分が、決然と一歩踏み出す、そこから始めなければならないことなのかも知れない。


「アニメ界の俊英、ヤマカンが語る“スタジオジブリの魅力”」

天空の城ラピュタ』は彼にとっての原体験であり、スタート・原点といった意味を持つ特別な作品だということが分かる。1話のサブタイトルの通り、まさしく「出会い」なのである。

だからこそ、1話は『ラピュタ』でなくてはならなかった。パクリと言われようと、『ラピュタ』であることに気付いてもらわなくてはいけなかったはずである。クレインはヤマカン自身の分身、作中の言葉で借りるならドッペルなのだろう。中学生のヤマカンが『ラピュタ』に出会ったように、14歳のクレインはフリュネと出会う。全てはここから始まるのだ。

クレイン=ヤマカン

冒頭クレインのモノローグで語られる言葉は、そのままヤマカン自身の考える「アニメ」や、彼を取り巻く環境への失望感のように思える。

「願いを捧ぐならってなんか変だ。普通捧ぐのは祈りだろう?そう、きっと見返りなんて返ってきやしない。きっと昼の星にバレるだけだ。ちっぽけでくだらない僕の願いがね。そして昼の星は僕を笑う。」

* * *

「いくら作品に思いをこめても伝わることはないだろうし、そんなものは必要とすらされていないのだろう。自分のようなちっぽけな存在がどんな作品を作ろうと、褒められることもなく、ただ「ヤマカンは終わった」と笑うやつがいるだけだろう。」

フラクタルシステムの完成により働かなくても生きていける楽園を手に入れた人類の姿は、現代(これから)の社会を批評的に捉えたものだとも考えられる。しかし、やはりこれはもっとピンポイントに、ヤマカンが「アニメ」について感じていることなのではないだろうか。
定時に昼の星(僧院)に祈りを捧げる(ログを送信する)代わりに、快適な生活を享受することができる「フラクタル」は、データベースの集合によって成り立つシステムのようだ。日々のデータベースの更新と、そこから得られる恩恵という「フラクタル」と人間の関係は、この作品に原案で参加している東浩紀が提起した「データベース消費」を連想させる。


そう考えると、一見単なる世界観の説明でしかないようなクレインのセリフも、昨今のアニメを取り巻く環境を批評的に捉えた言葉だという事がわかってくる。

フラクタルシステムが確立されたばっかの頃か。古典もいいとこだな。」
「この教科書の望む未来は確かにやってきた。仰るとおりほぼほぼ快適。誰かと触れ合わなくても大抵上手くやっていける。ちょっと退屈ではあるけど、これ以上の何かがあるとも思えないし。多少面倒なことといえばこれくらいのもんだ。」
* * *
『「データベース消費」や、他者の介在なしに欲求を即物的に効率よく充たしてくれる作品をインスタントに消費するスタイル(視聴者の動物化)は拡がりを見せている。昼の星に祈りを捧げるように消費者の好みやトレンドから目を逸らさず、それに応えることでしかアニメを制作し続けることが出来ないような退屈な状況に陥っているのかもしれない。』

また、作中には「データ麻薬」なるものも登場する。これは効率よく快楽を与える手段、いわゆる「萌えアニメ」と分類されるような作品のことだろう。クレインはこれを拒否する。つまりヤマカン自身もデータベースに依存したアニメに疑問を持っているということだろう。
1話、特にこのアバンパート(フリュネに出会うまで)は、ヤマカンのアニメに対する憂慮(「声明」の前半部分)を意味する度合いが強いように思われる。これらを踏まえた上で、世界観の設計について改めて考えてみよう。

世界観

フラクタル』の1話を受け、『天空の城ラピュタ』のほかに「似ている」と名前があがったのが『ふしぎの海のナディア』だろうか。監督の庵野秀明は、この冒険活劇を描いた後に『新世紀エヴァンゲリオン』を制作することになる。ヤマカンは学生時代に『エヴァ』の洗礼をまともに受けた世代と公言し、「乱暴に結論を言うと」と前置きをした上で「『旧エヴァ』でアニメは終わっている」という発言をしている。(思想地図vol.4「〔座談会〕物語とアニメーションの未来 p.176」)
庵野が自らを、宮崎駿ら第一世代の「最初のコピー世代」と称したのは広く知られたことだ。自分に続く世代に対し庵野は、「その後の世代はコピーのコピー。今やコピーのコピーのコピーの世代が登場し、作品を歪めて薄くしている」といった旨の発言もしている。ヤマカンは第四世代(コピーのコピーのコピー)にあたる。『フラクタル』に登場するグラニッツ一家(女性1人と男2人)は、『ナディア』のグランディス一味を思い起こさせるだろう。しかし、そのグランディス一味でさえも『タイムボカンシリーズ』の三悪のパロディなのだ。庵野が自覚的であったように、ヤマカンもまたそのことを自覚しているだろう。そうでなければ、出自を徹底的に暴露するような意識的な模倣は描けないはずだからだ。
ヤマカンは、別な意味においても自覚的な作家だろう。自分がどう思われて、何を言えば「客が喜ぶ」のかを分かっているように思える。それが、冒頭のモノローグであり、作品の世界観に表れていたのだと言える。


上記の座談会でアニメ評論家の氷川竜介が『エヴァ』の世界観とアニメ業界について非常に興味深い分析をしている。

サードインパクトで人類が半減した作中の世界観は、アニメ業界が力を失ってアニメ人口が半分以下になった黄昏時のアニメそのものだと。(中略)アニメ丸という船は、もともと九〇年代エヴァのずっと前から泥舟で大穴があいて水が漏れているわけです。今なお沈みかかっていて、それは変わっていないのでしょう。」(思想地図vol.4「〔座談会〕物語とアニメーションの未来 p.183」)

フラクタル』で、高度な技術とネットワークによりシステム化され資源再分配体制が整備され、基礎所得(ベーシックインカム)の導入によって楽園ともいうべき社会を手に入れた人類は、千年の時を経て衰え、世界人口は3億人にまで減っている。『エヴァ』の世界人口がおおよそ30億人であると考えれば、これはそのさらに十分の一にあたる。これは、データベースに基づき動物的欲求を充たすための消費者層(オタク)に支えられ、そこにさえ届けばいいという縮小再生産を続けた結果、アニメの持つ訴求力が、ごく限定されたコミュニティにしか届かなくなってしまったいという現状を意味しているとは考えられないだろうか。
「大昔の人間が作り上げたフラクタルシステムは最低限の機能だけを残し稼動を続けるが、歴史と技術を忘れ去ってしまった人類はそれを解析・更新する知恵を持たない。ただシステムを維持することが幸せの条件と信じていたが、徐々にそのシステムも崩壊しはじめている」という『フラクタル』の世界観は、やはり現状のアニメが抱える問題とピタリと一致するように思える。


クレイン=ヤマカンならば、世界を構成するフラクタルシステムはアニメを取り巻く環境を意味しているのではないだろうか。
フラクタルは、図形の部分と全体が自己相似になっているもの、自己相似形が入れ子状に無限の階層をなしているものを指す。タイトルに違わず『フラクタル』は、「現代社会」と「アニメを取り巻く環境」の小さな相似形の世界観を持っている。そこに暮らすクレインも、ヤマカンのドッペルつまり相似形としての分身として存在している。
データ麻薬を取り締まるために警察が登場したことで誰もいなくなってしまったバザーで、クレインは手に取っていたメモリーカードをくすねる。これは、現在のアニメが抱える問題にヤマカン自身も少なからず加担しているという事実を自己批判的に捉え、クレインに自分と同じ罪を背負わせたとも考えられるかもしれない。
とかく、フリュネと出会う前のクレインが置かれている状況は、「声明」に書かれたアニメを憂うヤマカンの姿と奇妙なほどの一致(フラクタル)をみせるのだ。

作品

フリュネとの出会い

フリュネはクレインにとって初めて身近に触れた”生身の異性”である。彼女の姿を見てクレインは言う。

「そんなはずないって分かってる。でも思ってしまったんだ。彼女は飛べるのかもしれないって。」

これは、今でも自らの「人生を変えた」とまで語る中学生時代のヤマカン少年とアニメ(『ラピュタ』)との出会いを表しているのだろう。
クレインがフリュネと出会うのは僧院にログを送信しているとき、すなわちヤマカンからすれば消費者の動向に目を向け、それに応える形で作品を作っていたときといえるだろう。業界に身を置き「アニメはもう駄目なのかもしれない」とまで考えた彼が、それでもアニメを作ろうと決意した背景にあったのは、この原体験とそこに立ち返りと自身が夢中になったアニメをもう一度信じてみようと思ったからなのだろう。


フリュネは『風の谷のナウシカ』を思わせるグライダーに乗り、『ナディア』を思わせる三人組に追われる形で登場する。この様子は、アニメ第一世代と第二世代(とそれ以降の世代)の関係、もしくはアニメを追いかける存在つまりは消費者の姿を暗に示唆しているのではないだろうか。
フリュネの姿に魅了されたクレインは、崖の細い道をなんとか渡って彼女のもとに辿りつく。いざ対峙しその姿を見てみると、彼女は傷を負い、しかもコミュニケーション不全っぽく、想像していた姿とは異なっていた。この展開も『ラピュタ』に魅了されアニメ業界に足を踏み入れ、ようやく自分の番が回ってきた頃にはアニメは既に自分が夢中になったものとは違う形になっていて、一体自分は何をすればいいのか、何が出来るのか分からないという世代的特徴に重なるものがある。つまり、

  • クレイン=ヤマカン
  • フリュネ=アニメの象徴
  • フラクタルシステム(世界観)=現在のアニメを取り巻く環境・市場
  • 僧院(昼の星)=アニメ的データベース、トレンド
  • 祈り=市場のトレンドを注視すること
  • データ麻薬=萌えアニメ

をそれぞれ象徴しているように読むことも出来るかもしれないということだ。

ドッペルと「父と母」

クレインは傷ついたフリュネを介抱するため家に連れ帰る。その家には両親のドッペルがいるが、この両親とは一体何者か。
まずドッペルについて考えてみよう。「食事は家族揃って一緒に」というセリフからも分かるように、ドッペルは与えられた役目を「らしく」振舞うもののように見える。「父らしく」「母らしく」「友人らしく」、人は誰でも程度の差はあれど、一緒にいる相手や役目によっていくつかの自分を使い分けている。つまり「祈り」によってデータベースに送信された個人のログから、その役目(例えば父として)にとって相応しい「らしい」部分だけを抽出(特化)したデータが送信され、それを代行するのがドッペルだと考えることができるだろう。つまり、本人とそのドッペルは相似の関係、フラクタルであるといえる。
それは部分的に見れば、限りなく本人と変わらないだろう。しかし、その人を構成する要素の「ある役目として「らしい」部分」だけを抽出したデータしか持たない存在なので他要素からの干渉を受けず、それゆえ役目はまっとう出来るが、一面的な行動しかしない(できない)ということだろう。クレインの父のドッペルを例にとれば、「父として」「夫として」は行動するが、その他の例えば「社会人として」の要素などは、あのドッペルにはあまり反映されないということだ。



そう考えても、あの会話には矛盾点とまでは言えないものの、気になる点が残る。それが、「5年前に仕事をリタイアし今は悠々自適の生活をしている」というセリフだ。自分のことを他人事のように話すというのは、それがあのドッペルにとって関係のない要素だからということで納得できるだろうが、「5年前」という部分をアニメの話に置き換えると面白いものが見えてくる。
今から5年前、2006年は『涼宮ハルヒの憂鬱』が放送された年なのだ。『ハルヒ』は「学園もの」「SF」「セカイ系」「美少女」等といった、それまでの「オタク的データベース」の玉手箱のような作品だといえるだろう。ヤマカン自身も『ハルヒ』で広く名前を知られる存在になった。そう考えると、食事は一緒にという父が5年も前に仕事をリタイアしていたことを今になって伝えるのは、フラクタルシステムのデータベースの更新が上手く機能していないという可能性を示唆したものではないかという考えが浮かんでくるだろう。つまり、アニメのデータベースが2006年の『ハルヒ』以降、新しい情報が書き込まれず更新されない(できない)不全に陥っている状況があると考えているのかもしれない。これをヤマカン自身に当てはめるなら、何をやっても未だに「ハルヒダンスのヤマカン」と言われ、そのイメージが払拭・更新されないと言い換えることができるだろう。


その後、クレインはフリュネを招き入れるため両親のドッペルを消す。そこで次に、ドッペルとしての存在ではない「父と母」はどんな意味を持つか考えていきたい。アニメ人ヤマカンにとっての父と母とも言える存在は、宮崎駿京都アニメーションになるだろう。前者は彼の人生を変え、未だにその背中を追い続け「呪縛」とまで言わしめる存在で、後者は袂を分かったものの理想の制作環境が整ったスタジオで、経験は変えがたい財産になっていると語る存在だ。
これらを「消す」となると、スキャンダラスなとり方をする人もいるかもしれないが、これは決してそういう意味ではないだろう。
冒険活劇には、主人公の成長と両親から自立という大枠のテーマがある。つまり両親とは一体何なのかを自覚している必要がある。どうしたって影響を受けているが故に超えなければいけない最初の壁、両親とはそういった意味を持つだろう。
アニメの象徴としてのフリュネは、ヤマカンとしてのクレインにこう言う。「あなたは自分の家族を自分の意思で消したのですか。」これは実写映画の監督をしたことや、京アニとの関係を必要以上に邪推するゴシップ好きな有象無象(もちろん私も含む)の声に実に似ているではないか。両親の庇護の下を離れクレインがクレイン自身で何が出来るのか、ヤマカンがヤマカン自身でアニメとどう対話していくかが描かれているように見える。


両親のドッペルを消したクレインを見て、フリュネは彼の手を借りることを拒む。それでもクレインは言う「変な子。でも…なんかいいな。」と。「飛べるかもしれない」と思った彼女が、若干電波っぽい感じだったとしても、それでも初恋ともいえる出会いの相手は魅力的だと感じられるということだろう。クレインへの失望からか一旦は手を借りることを拒んだフリュネが、彼に協力を請うことになる。
やっと出会えた麗しの人は想像していた姿とは違っていた。傷を癒してほしいと願い手を貸そうとしても、自分の行いを批判されそれを拒まれる。それでもまだ美しいと思っていたところに、もう一度チャンスが訪れる。この一連の流れは、ヤマカンの「今まで自分」との自問自答の姿だろう。「こっち見ていただけませんか。」というフリュネのセリフも、アニメから目を逸らすな、自分から逃げるなという言葉に思えてくる。

岡田麿里と「部屋」

クレインの「部屋」に足を踏み入れたフリュネだが、「部屋の乱れは心の乱れ」という言葉もあるように、部屋と心の関係はなかなか深い。この点について、脚本の岡田麿里に注目したい。岡田は部屋を心の象徴のように描くことが多い脚本家のように思えるからだ。
例えば『とらドラ!』では、散らかり放題だった大河の部屋が竜児の手によってキレイに整頓されたこと。外見上は明るく見える実乃梨の部屋が、なんとも殺風景で寂しげであったこと。ボロアパートに見える竜児の部屋がきちんと手入れされていることは、彼の外見と内面のギャップを示しているように見える。
true tears』でも、眞一郎の部屋に入る勇気のない比呂美の姿や、同居後はじめて比呂美の部屋を訪れた眞一郎の誤解とおせっかいで心のすれ違いを。店に訪れた三代吉を招き入れようとする眞一郎へかけられる愛子の「開けないで!」という言葉は、彼女の本当の心を表現していると考えられる。終盤に描かれた眞一郎の自分を戒める決意は部屋のさらに奥の押入れでと、やはり部屋と心を象徴的に描いている。
黒執事II』でクロードが屋敷の内装を変える様は、その後の洗脳(心の書き換え)を想起させていたように、岡田の脚本では部屋と心が密接な関係を持つことが多いのが分かる。クレインの部屋も彼の心、ひいてはヤマカンの心とすることも無理な話ではないだろう。


つまり、ここからのクレインとフリュネの会話は、心を開けっぴろげにしたヤマカンのアニメに対する自己問答なのではないだろうか。
部屋には人からすればガラクタに見えるかもしれないけれども自分が集めてきた(時間と思いをこめられている)大切なもの。誤解されているかもしれないけれど、わざわざ人に言うまでもなく心の中で大切にしている両親とも言うべき存在。変わってしまったかもしれないけれど、確かにあったはずのアニメを楽しんでいた頃の自分。そんな純粋な気持ちを思い出して作品を作ってみようという決意が、このシーンには隠されているような気がする。
フリュネは「あなたの笑顔なら、きっと守ってくれるはず。」という言葉と共に、クレインに「笑顔の源となっているおまもり」を渡す。これは『フラクタル』を制作するチャンスを得たヤマカンの姿のように見えるだろう。

消費者としてのグラニッツ一家

そこへ、フリュネを追ってグラニッツ一家がやってくる。先ほどは判断を保留したが、彼らは視聴者・消費者の象徴という意味を持つのではないだろうか。
消費者がアニメを疲弊させている現状も少なからずあるわけで、それはフリュネを執拗に追い回し攻撃していた様子に似ているように思える。彼らが自分の姿を隠し(偽り)一方的に言いたいことだけを言う様子は、ネットスキャンダルに巻き込まれるヤマカンのそれに見えるだろう。エンリの「うるさい!このデッカチ頭!」なんていうセリフは、いかにも彼が言われていそうな言葉だろう。
彼らは勝手に部屋に上がりこみ家捜しを始める。これは粗探しをするアンチ的な人の行動に見える。目当てのものが見つからなければ、捨てゼリフを吐いてそそくさと撤退していくのも、いかにも「らしい」行動だといえる。
先ほど部屋は心の象徴だと書いたが、その部屋でグラニッツ一家はクレインが隠し持っていた「えっちぃもの」を見つける。これはヤマカンの自虐的なジョークなのではないだろうか。


その後、電波の届かない礼拝堂跡に移動し、二人は改めて言葉を交す。
「この時代に生きる人は縛られることを嫌い、特定の家も持たないと聞いています。」フリュネはクレインに言う。この言葉は、例えば2ちゃんねるのようなネットの声にディスられないことだけを気にして作品を制作し、それを消費するという限定的なフィードバックの市場関係を続けた結果、徐々にスポイルされ特定の層にしか届かず、それもごく短い期間で消費しつくされてしまうというアニメ業界が陥っている現状のように思える。
こうした会話を電波の届かない(=外野の声から離れたところ)でするということは、そうした声があることを理解した上で、それとは適切な距離をおいて作品を作りたいという意思の表れのようにに思える。事実ヤマカンは、『フラクタル』について言及することを極端に避けている。つまり、ネットの「祭り」的な盛り上がりで作品が消費されてしまうのを嫌い、作品の本質を見てもらいたいと考えているのだろう。
フリュネはブローチを月明かりに照らし「守ってもらいな」と優しく話しかけ、クレインに改めてそれを託す。

キャラクターについて

フリュネ

フリュネの素性はほとんど明かされていないが、どうやら「グラニッツ一家」と「僧院の科学者(バローとモーラン夫婦)」に追われているらしい。
前者はエンリの兄スンダがリーダーを務める組織で、フラクタルシステムによって成立した世界を「人類が堕落し誇りと気概を失った時代」と規定しシステムに頼らない世界が必要だと訴える「ロスト・ミレニアム運動」を起こしている。先に彼らを消費者の象徴ではないかと仮定したが、彼らがフラクタルターミナルを体内に入れていないためゴーグルを使わないとドッペルが見えないというのは、なかなか洒落ているのではないだろうか。

後者はフラクタルシステムの管理者で、システムを再起動させるための研究に心血を注ぎ、その鍵を握るフリュネに病的とも言える愛情を傾け最前線に立ち彼女の救出に奔走する科学者バローと、人類の幸福を取り戻すために崩壊を続けているシステムを再起動させ、失われつつある楽園的世界の再生を目指す、祭司長であり、僧院の象徴としてシステムの政(まつりごと)を担うモーランの夫婦だ。(共に公式サイトと事前情報から)両者がどのような関係にあるのかは分からないが、共に目的のためにフリュネ(の力)を必要としているようだ。
なぜフリュネが必要とされ追われるのかは定かではないが、彼女が言った「この時代の人は〜〜と聞いています」という言葉に全力で釣られてみよう。クレインの暮らす時代を「この時代」と言うことは、フリュネは過去か未来から来たと推察される。彼女の持つブローチと礼拝堂跡の遺跡にあった紋章の形が一致していることから、ここでは過去から来たと仮定して話をすすめる。
フリュネをアニメ、世界(フラクタルシステム)をアニメを取り巻く環境、僧院をデータベースを象徴すると考えるならば、機能不全に陥ったシステムを再起動させるために僧院がフリュネを追い求めているのは、アニメを在りし日(というものがあるとして)の姿に戻したい、もしくは現状が駄目駄目なので蓄積されたものも含め一切をリセットしてゼロから始めようと考えているからと翻訳することができるだろう。

僧院はシステムを再起動させるため、グラニッツ一家はそれすら阻止するために、それぞれ鍵となるフリュネを追っていると考えられるのかもしれない。


では何故、システムの再起動にフリュネが必要なのだろうか。
フリュネがアニメの象徴、フラクタルシステムがアニメを取り巻く環境・市場であるなら、それこそ作品(供給)と市場(需要)が円環的因果論に基づくと仮定するならば、それらは相似(フラクタル)の関係をもつと言えるのではないだろうか。神の見えざる手によりバランスが保たれるのではなく、外部不経済によって市場の失敗が起こった(起こりうる)のがアニメ業界で、その象徴としてのフラクタルシステムも崩壊の危機を迎えていると強引に理解することも可能だろう。


先ほどフリュネは過去からの来訪者と仮定した。「舞台となっている時代のフリュネ」は既に死んでいるのかもしれないし、瀕死状態で僧院に保護されているのかもしれない。それに来訪者と言っても、何も実体がタイムトリップしてきたとは限らず、フラクタルシステム再建の為に、保存されていた過去のデータをフリュネの人格に上書きした「フリュネ´」とも言うべき存在を僧院の科学者が作り出したのならば、それも広義のタイムトリップだと言えるだろう。入れ物としての体と移植された人格というのは綾波レイ的ではあるが、「私は誰か、何者なのか」というセリフもあるように、自意識をこじらせ自分が利用されることを嫌い僧院から逃げ出したとも考えられる。いずれにせよ、なんらかの決定的な変化が起こったのが「5年前」で、それ以来データの更新が滞っているのだとすれば、クレインの父のドッペルの会話にも合点がいく。
フリュネ(部分)とフラクタルシステム(全体)が相似の関係にあり、「全体の変化が部分に影響を与え不具合(システムの崩壊→フリュネの死)が生じる」ならば、「部分を変えることで全体を遡及的に立て直し(過去の健全なフリュネ→正常なシステム)再起動を図る」という考えに到るとしても不思議ではない。これは何もアニメに限った話ではなく、現代における個人と社会の問題にも当てはまるだろう。


この「システムの再起動」というのは、着想に差はあれど『エヴァ』の「人類補完計画」とよく似ているように思えるし、フリュネとシステムの関係は「セカイ系」のようにもみえるだろう。近景と遠景(「君と僕」と「世界」)が直結するセカイ系の系譜を(正統的とは言わないまでも)受け継いでいるのが、近景のみを描くいわゆる「空気系」になるだろうか。空気系で近年の代表的な作品といえる「けいおん!」は、卒業により主人公たちが中景と接続されることで一旦の終了を迎えた。『フラクタル』がアニメやそれを取り巻く環境を象徴的に描く作品だとするならば、それらモチーフを登場させるのは自己批評的な意味合いを持つためには必要なことだと言えるだろう。

ネッサ

続いてネッサについて考えてみよう。

フリュネが残したブローチからでてきたドッペル。無邪気で好奇心旺盛。通常のドッペルとは異なり完全な少女の形を維持しており、データでありながらクレインが触ることができる。高機能である故、近隣のデータ回線やメモリ領域を過度に圧迫し、フラクタルターミナルとサーバー間の通信が滞ったりセンサーが狂ったりすることがある。(公式サイト:キャラクター紹介より)

「守ってもらいな」という言葉と共にクレインに託されたことからも分かるように、ネッサは特異な存在のようである。

キャラクター原案の段階では髪や瞳の色が同じであること、フリュネのブローチから出てきたこと、それが礼拝堂跡にある紋章と相似形であることから、ネッサはフリュネないし僧院と深い関係があると考えるのが自然だろう。フリュネが16歳、ネッサが10歳であることは何度か検証した「5年前」をも想起させる。

モチーフと関係性

フリュネは古代ギリシャの有名の有名な娼婦であるフリュネがモチーフになっているだろう。彼女は本名をネサレテといい、これはネッサを連想させる。ネサレテは「胸に美徳を秘めし者」、フリュネは「ガマガエル」という意味を持つ。彼女の肌が黄色かったことから娼婦仲間や客からそう呼ばれたらしい。
(以下、太字がギリシャの娼婦のフリュネ、細字が『フラクタル』のフリュネ)


フリュネは不信仰の罪(「エレウシスの秘儀」を冒涜した罪)で起訴される。エレウシスの秘儀は、「人を神性へと到らせ神と成し、その人を不死の存在として確かなものにする」という「再生と罪の赦し」を意図して行われていのだと考えられている。これは先ほど例に出した『エヴァ』の人類補完計画のようにも見え、『フラクタル』で僧院の科学者がシステムの再起動を目指す姿とも重なるものがあるだろう。つまり僧院がシステムの維持・再起動の為に行っていると思われる「政」は、このエレウシスの秘儀に類似した行為で、巫女であるフリュネも当然何らかの(重要な)役割を担っていると考えられるだろう。秘儀とはすなわち口外することを許されていないことなので、僧院の外に出ること自体が罪に当たるのかもしれない。
彼女を訴えたのは、高額な代金を請求された議員だとも、普段は衆人環境で裸になることのないフリュネが、エレウシスの祭りの時は彼らの好奇心に応えるために裸になって海に入り、神話の演劇的再現を見せるのを妬んだライバル娼婦だとも言われている。
フリュネはこの裁判で、愛人の一人でもあったヒュペレイデスの弁護を受ける。形勢は不利であったが、ヒュペレイデスが彼女の上着を引き裂き(フリュネが自分で脱いだという説もある)体躯を露わにし、それに魅了された裁判官の心変わりによって(別に下心ということではなく、そこから感じられる神々しさを神から与えられしものと納得し)無罪となった。
人気の娼婦だったフリュネは、客に請求する値段を自由に決めていた。気に食わない相手なら、たとえ一般人の年収と同等の金額を提示されてもこれを拒否した反面、立派だと思った哲学者ディオゲネス(無一文で、樽に住んでいたこともあるらしい)からは、金を取らずに一夜を共にした。


裁判のエピソードとディオゲネスのエピソードは『フラクタル』に関連付けることが出来るだろう。

フリュネは僧院から抜け出し、グラニッツ一家にも追われている。彼らが彼女を必要とし追い求めているのは、フリュネに巫女としての神性な(システムを再起動する鍵とも言うべき)力があるからだろう。薬を塗るためにクレインの前で裸になるフリュネの姿は、裁判でフリュネがとった行動に似ている。この場合、裸をみせるのは自らの神性や利用価値を相手に見せるということを意味する。そのまま眠りについたフリュネに、クレインは悪戯をするわけでも魅了されるわけでもなく、ただ服を着せベッドに寝かせパソコンで作業を始める。その姿を見てフリュネは、フリュネが権威や名声には流されず自分の価値観で事を決めていたように、初対面のクレインに「あなたですね間違いなく」という言葉と共に自らのブローチを託したという風に。


彼女の愛人だった彫刻家プラクシテレスがフリュネの美しさを彫像によって永遠に残そうとしたように、僧院もフラクタルシステムと、その運用に不可欠なフリュネを永久に残そうとしているのかもしれない。先に「データとしての人格」の可能性で挙げた「入れ物としての体」は、彫像とも言い換えることができるかもしれない。


フリュネというあだ名の由来ともなっているガマガエルは、魔女が怪しげな薬を調合するときに必ずといってもいいほど材料として登場することや、容姿が醜く毒を持っていることもあって決して良いイメージではない。しかし、シェイクスピアの『お気に召すまま』第二幕第一場に「逆境が人に与えるものほど麗しいものはない。それはガマガエルのように醜く毒をもっているが、頭には貴重な宝石を宿している」というような一説も登場するように、その本質に目を向けることが重要だと考えられる。
娼婦であるフリュネの本名が、「胸に美徳を秘めし者」という意味を持つネサレテであったように、フリュネの持つ宝石がネッサということになるだろう。
ネッサはドッペルである。ドッペルは実体の「ある役目」だけを代行する存在だと仮定した。それならばネッサはフリュネの「僧院の巫女という特別な役目を負っていない部分」、つまり「普通の少女として」のドッペルだと考えられるのではないだろうか。巫女でもシステム再起動の鍵でもなく、僧院から出たことのない世間知らずで好奇心旺盛な普通の少女としての自分のドッペルを、裸を見ても特別視も利用しようともせず、大切なものを大切に出来る心を持ったクレインに守ってもらいたいと思い、フリュネはブローチ(ネッサ)を彼に託したのかもしれない。


つまり「フラクタルシステム」と、その再起動の鍵である「フリュネ」、その少女たる部分だけを代行するドッペルとしての「ネッサ」は、それぞれ全体と部分という意味において、フラクタルであると言うことができるだろう。「フラクタルシステム」も、現代社会ひいてはアニメを取り巻く環境を象徴的に描いたものだろうことから、社会>アニメ業界>フラクタルシステム>フリュネ>ネッサが、それぞれ自己相似の入れ子状の構造、つまりフラクタルであると考えられるだろう。
そんな世界を、ヤマカンのドッペルであるクレインが、世界の卵・アニメの卵とも言うべきネッサと共に旅をするというのが『フラクタル』なのではないだろうか。

クレイン

クレインのモチーフになっているのは、数学者クラインと、『存在と時間』の第四十二節に引用された寓話に登場するクーラ(気遣い)だろう。
クラインにより考案された「クラインの壺」は、裏表・境界の区別を持たない(つけられない)閉曲面の一種。おそらくこれはクレインの性格を表すのだろう。裏表のない真っ直ぐな性格だとも、自己の内面に外界を内包するのだとも考えられる。またフラクタル集合の変形はクライン群の変形の規則性に伴うらしく、両者は無関係ではないらしい。
こうしたことを踏まえると、世界(フラクタルシステム)の相似形であるところのネッサの変化はクレインの変化に伴い、二人が共に世界を回り成長すること、両者の関係性を変化させていくことが、そのまま遡及的に世界の変化に繋がるということになるだろう。


後者の寓話を極めて乱暴に要約すれば、「粘土から像を作り上げたクーラ(気遣い)、精神を与えたユピテル(収穫)、身体を与えたテルス(大地)が、像には自分の名前が名付けられるべきだと話し合っていたが決着がつかないので、サトゥルヌス(時間)に裁きを頼んだところ「精神を与えたのだからユピテルは像が死んだら精神を受け取り、身体の一部を提供したのだからテルスは像が死んだら身体を受け取りなさい。クーラは像を最初に作り上げたのだから、それが生きている間はクーラが所有しなさい。名前について争っているが、フームス(土)から作られているのだからホモ(人間)と名付けなさい」と言われた。」という話だ。哲学的な意味はさておき、この寓話自体が『フラクタル』に符合するように思えるではないだろうか。
つまり、フリュネのドッペルだから(娼婦フリュネの本名である)ネッサという名前で、ブローチからネッサを取り出したクレインと共に旅をする。(仮に)ネッサが消滅してしまった後は、身体を与えている(フラクタルシステムを管理する)僧院には身体が、精神は現段階においてはフリュネの少女性だろうが、今後成長を遂げるならそれに寄与した人(当然クレインも含まれるだろう)や社会に、それぞれ返ってくるというようなことがないとは言い切れないし、それを察知し全てを独占しようと企む者が出てくることも考えられるだろう。

マンデルブロ・エンジン

原案 東浩紀

存在論クラインの壺を参照しなければいけなかったように、東浩紀が原案で参加していることについても考えなければいけないのかもしれない。

神とも呼ばれるフラクタルシステムに管理され、基礎所得の導入により働く必要もなく、ドッペルの存在により他人と直にコミュニケートする必要もなくなった人類は、世界各地に散らばり暮らしている。この社会形態は非常に奇妙に見える。
他に干渉されることを嫌い、個に立脚した生活をそれぞれの意思によって「まったり」と営みながらも、そうした相対主義的な社会への不安、つまりは共通する基準の喪失により、誰が何を考え、自分の考えを他人がどう思っているのかがわからないという「郵便的不安」を覚え、その不安を解消するために自己の分身たるドッペルに他者とのコミュニケーションを自己満足のような形で代行させ、これらを実現してくれるフラクタルシステムを神として崇め信仰しているとも捉えることができるからだ。
この社会システムのスタートが一体どのようなものだったかは分からないので文面的な意味にはなってしまうが、これは「論理的脱構築」し否定的に現れたものを絶対視する否定神学システム、つまりは「存在論脱構築」を体現させた社会システムのように見える。「所与のシステム(フラクタルシステム)を形式化し、そこに自己言及的な決定不可能性(解析不可能なシステムに神性)を見出し、そのポイント(フリュネ)を超越論化することでシステム全体の構造を逆説的に説明する思考」というのは、( )に『フラクタル』の要素を代入すれば、僧院が試みようとしていることに似ているように見える。


東は、こうした否定神学に陥らないためには「郵便的脱構築」が必要だと説いた。重要になるのは「無意識的な直接的コミュニケーション」だ。ストーリーを軸にこれを考えてみよう。
裸で眠りについてしまった自分に服を着せて寝かせてくれていたことや、父と母との思い出や自分の笑顔が映ったデータを大切に残しているクレインを信用し、自分の意図を直接伝えるのではなく、これまた眠ってしまった彼にブローチを託したフリュネと、彼女に何を言われた訳ではないけれども、それを古いデータだと察し解析してネッサを出現させたクレインの行動というのは、言語を媒介にしたコミュニケーションではなく、無意識的なコミュニケーションによるものだと捉えることができるように思える。
ネッサがフリュネの少女性のドッペルだとするならば、クレインとネッサの直接的なコミュニケートは、非同期・非対称(データ更新にラグが発生するだろうし、同一時間の存在体ではないかもしれないことから)な、クレインとフリュネの無意識的な直接的コミュニケーションだと言うことができるだろう。ネッサ、フリュネ、フラクタルシステムはそれぞれ相似形であるだろうことから、クレインがネッサとコミュニケートすることは、システム・社会との無意識的な対話だともいえる。
クラインの壺が内と外の区別がつかないものであるように、無意識なコミュニケーションで感じ得られたものが自己理解や他者への理解につながり、クレインの変化がネッサ→フリュネ→フラクタルシステムに遡及的に影響を及ぼし、そこで生じる微細なズレ(誤配)が世界の多様性として重要なのかもしれない。
フリュネとネッサを「エクリチュールの断片」、フリュネが僧院を抜け出したことを「回帰構造の内破」と関連付けるならば、システムの恩恵を受け暮らしているクレインが、交流と成長を通じこれまでとは違った世界の帰結を導き出すという行為は脱構築的な方法論と言えるのかもしれない。

脚本 岡田麿里

「社会と個人」「ポップカルチャーサブカルチャー」などは、二項対立的な文脈で比較され語られることも多いが、それらの直接的な祖は同じ、つまり共に同じ文脈から発生するものであるだろうから根幹に抱えるのは似たような問題(意識)になるだろう。
フラクタル』はヤマカンのフィルターを通して見ればヤマカン的に見えるし、東のフィルターを通せば東的に見える。これらを、それこそ無意識的な直接的コミュニケーションで感じとりストーリーに翻訳するのが脚本家の岡田麿里の役目になる。
岡田は真っ直ぐで、だからこそ残酷な一面も持ってしまうストーリーを描くのが巧い脚本家だろう。つまり、「あるべきところに収まるストーリー」は、裏を返せば「なるようにしかならない」ということであり、結末に到るまでの過程で、「あり得たかも知れない未来」と「決断に伴う様々な犠牲」を登場人物たちが自覚することで、関係性と物語の強度を上げるような描き方をすることが多いように思える。


フラクタル』で、僧院がシステムを再起動(リセット)しようとしているのは、広く見れば未来からの過去の否定になるだろう。つまり「現状が望ましい状態ではないので、これまで起こったこと(蓄積)も、これから起こりうること(可能性)も全てリセットしてしまってゼロから始めましょう」ということだ。
クレインはそれを望むだろうか。ちょっぴり退屈だとは感じていても、モノや思い出を大切にする心を持ち、フリュネやネッサと出会うことになったこの世界がリセットされてしまうことを彼は望まないのではないだろうか。それこそ「この間違った世界で僕は君に出会った。この世界を君を愛している。」と言ったルルタ=クーザンクーナのように。
要するに、ある面から見たときに現状が望ましい状態にないのだとしても、望ましい過去に(懐古的に)回帰するのではなく、そうしたユートピアがあり得たかもしれないことと、その差異から導き出せる現状の問題点と良い点を自覚した上で、連続した時間帯である未来に新たな活路を見出すほかない、つまりは今を生きていくしかないという結末が用意されているような気がする。
フリュネが歌っていた「昼の星に願いを捧ぐなら 夜の星にさようならを告げ」という一説にもあるように、全ての願いは同時には叶わないし、何かを選択することは何かを捨てる選択をすることだ。真に願いを捧げるべきものは一体何なのかも考えていかなくてはならないだろう。

おわりに

クレインが大陸の片隅から冒険をはじめるように、ヤマカンもアニメを巡る冒険をするのだろう。傍らにいるのはアニメの卵としてのネッサだ。
おかしな世界を旅するクレインとネッサの成長が、そのままシステムや社会に遡及的に影響を与えるかもしれないように、「もう駄目かもしれない」とも感じてしまった「アニメ」が『フラクタル』で少しでも変わればいい、変わって欲しい、そんな願いをこめているからこその身を賭した勝負なのだろう。

番組表で振り返る、2010年TVアニメ

はじめに

阿良々木暦は、神谷さんしか考えられなかった。時期が『絶望先生』と同じだから悩みはしたんです。ただ、映像として残ったときにはオンエア時期は関係ないですから。』(オトナアニメVol.13より抜粋)

これは、同時期に同じ監督が同じ制作スタジオで同じ主演声優を起用した作品(『化物語』と『【懺】・さよなら絶望先生』共に2009夏クール放送、監督:新房昭之、制作:シャフト、主演:神谷浩史)をオンエアすることについての見解を新房昭之監督が語った言葉です。
確かに、作品がパッケージとなって店頭やレンタル棚に並んだ後に索引として機能するのは、せいぜい制作された年くらいで、どの「時期」に、どの「局」で「何時」に、どんな「並び」で放送されたかなんてことは、個人の思い出は別として、作品自体には大した影響を残さないでしょう。


1年を振り返る方法は様々あるでしょうが、ここでは「番組表」に特化して2010年のTVアニメを振り返ることにします。レコーダーの発達や公式配信の充実もあって、番組表を気にしない人も少なくないかもしれません。ただ、偶然と必然が混ざり合って出来た番組表から1年を振り返ってみるのも悪くないような気がします。それは「今」しか出来ないことでしょうから。





※保存先にオリジナルサイズ有り。デカいです。
これが今回使う番組表です。

  • 関東キー局と、私が視聴できるU局(MX、tvk、(テレ玉))で構成
  • 朝やゴールデン、夕方(日5除く)は含まない
  • BS・CSまで手を広げてしまうとあまりにも膨大になるのと、枠の性質(再放送・遅れ放送etc)もあって面倒くさいので除外(「ハミュッツ=メセタに謝れ」)
  • 最速にこだわりはなく「MXで見(録)ればいいか」のノリなので、精度はキー局>MX>tvkテレ玉の順で落ちてるはず(作った順でもあるので飽きてきてるし)
  • あくまでこれは、私的簡易版の番組表。私の見ていない番組(『スパロボOG』等)や、特殊な枠(刀語ギャグマンガサンレッド、アイルー村等)は入っていないので注意

枠で振り返る、2010年TVアニメ

ノイタミナ」「アニメノチカラ」「日5」「木曜TBS」「日曜テレ東スタチャ枠」「火曜日テレVap枠」「MX E!TV」等々、局・メーカー主導の違いはあれど枠として認知されているものは多いでしょう。
ここでは、同じ局の同じ時間帯に放送されたものは全て枠として扱い、2010年TVアニメを振り返ります。

  • エントリー条件:同局、同一時間帯で3本以上放送。内2本は新作であること。
放送枠
01 ソラノヲト ナイトレイド オカルト学院 ざくろ TX「アニメノチカラ」+α
02   裏僕 裏僕 えむえむっ! MX(冬:まりほり再)、tvkテレ玉
03 ダンパイア 一騎当千XX オオカミさん 百花繚乱 MX、tvkテレ玉
04 クェイサー クェイサー あそびにいくヨ! 俺妹 テレ玉
05 クェイサー クェイサー HOTD 俺妹 tvk
06 君に届け RAINBOW RAINBOW 君に届け NTV
07   迷い猫 ぬら孫 ぬら孫 MX
08   薄桜鬼 HOTD もっとToLoveる MX
09 のだめ 四畳半   海月姫 CX「ノイタミナ
10   さらい屋 屍鬼 屍鬼 CX「ノイタミナ
11 ひだまり☆☆☆ おお振り・夏 アマガミ アマガミ TBS
12 おおかみかくし メイド様 メイド様 それ町 TBS
13 キルミン+ テガミバチ 伝勇伝 伝勇伝 TX
14   真・恋姫無双2 ストパン2 ヨスガノソラ MX
15 デュラララ!! デュラララ!! 黒執事2 咎狗の血 TBS
16 超電磁砲 うしろの大魔王 カンパネラ 禁書目録2 MX、テレ玉
17 超電磁砲 うしろの大魔王 あそびにいくヨ! 禁書目録2 tvk
18   薄桜鬼 生徒会役員共 薄桜鬼2 tvk(冬:まりほり再)、テレ玉
19 おまもりひまり   ストパン2 パンスト tvk
20 鋼FA 鋼FA BASARA弐 タクト TBS
21   セキレイ セキレイPE 俺妹 MX
22 はなまる 荒川   荒川2 TX
23 ケロロ ケロロ ケロロ ケロロ TX

多いよバカっ!
途中まではちゃんと正式名称で書いてましたが、挫折しました。
話題の作品だったであろう『Angel Beats!』や『けいおん!!』『探偵オペラ ミルキィホームズ』がエントリーすら出来ない。これがこの企画の恐ろしさ。


枠という事で言えば、2010年注目の的となったのが「アニメノチカラ」【01】でしょう。アニメオリジナル作品3作によって構成されたこの枠は、独特な世界観の中での日常崩壊後のつかの間の日常と、その再崩壊の危機を描いた『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』。特殊能力を駆使する諜報機関員を歴史ifストーリーで描く『閃光のナイトレイド』。1999年の松代を舞台に、学園、オカルトやSF、タイムリープと歴史改変、さらには魔法少女(?)まで登場し、学研ムーが監修で協力した『世紀末オカルト学院』。後を引き継ぐ形で放送された『おとめ妖怪ざくろ』と良作ぞろい。「アニメノチカラ」と銘打ち枠を強く印象付けたことで、最初に持った印象が良くも悪くも他作品に影響を与えるなど作品ごとの連帯感は強い感があります。


枠としてのブランドも既に認知され、春クールからは1時間に拡大された「ノイタミナ」。客層問わず「アニメーション」の面白さを感じさせてくれる作品が揃いました。局主導で年間を通して構成をプランニング出来るのも強みでしょう。エッジの立った作品を並べ、不朽の名作『青い花』を生み出したものの、あまり注目はされなかった「NOISE」が発展的に吸収されたのが、後半枠になるでしょうか。オノ・ナツメ志村貴子の作品を再びアニメ化した(する)のは、編集長の意地のようで面白い。


声優に注目してみると、花澤香菜【04】、福山潤【15】、豊崎愛生【17】、斎藤千和【22】など勝手にコンボが決まっている枠も登場。【21】は再放送を含むとは言え、生天目仁美花澤香菜早見沙織がトリプルハットトリックを決めています。


【05】は『聖痕のクェイサー』『学園黙示録HIGHSCHOOL OF THE DEAD』とおっぱいに異常な執着を見せる作品を揃えていただけに、足並みを乱した『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の責任は大きい。が、男主人公が、筋の通っていないことを勢いで押し切り納得させ、ヒロインたちを篭絡していくペテン師っぽいという点において、謎の連帯感を見せます。
【11】【12】の木曜TBS枠は、全て高校生が主人公。
【14】からは紳士感と、イカ娘よりイカ臭いにおいが漂うが、演出面で光る作品が揃う。
【15】は女性もターゲットに見据えたものの、狙い撃ちの『咎狗の血』で失速したのが痛い。
【16】はタイトルが全て『○○の△△』になっており、タイトルはジブリ級。


やはり「枠」という総合力で考えると、やはりプランニングされている「ノイタミナ」「アニメノチカラ(+α)」「木曜TBS」「日5」が強いという何とも普通の結果に……。

流れで振り返る、2010年TVアニメ

ここでは局の垣根を越えて、連続した時間帯で放送された作品はひとつの「ライン」として扱い、2010年TVアニメを振り返ります。

  • エントリー条件
    • 連続した異なる時間で3本以上の作品が放送され、内2本は新作であること
    • 15分までの空白なら連続と判定
    • かぶりが15分以下なら別の時間帯と判定

01 火曜 君に届け』 → 『ダンパイア』 → 『クェイサー』
02 木曜 『のだめ』 → 『キディガ』 → 『ひだまり』 → 『おおかみかくし』 → 『キルミン+』 → 『おまもりひまり
03 金曜 『キディガ』 → 『超電磁砲』 → 『デュラ』 → 『おお振り(再)/キディガ』
04 土曜 テガミバチ』 → 『まりほり(再)』 → 『おまもりひまり』 → 『超電磁砲

05 月曜 一騎当千XX』 → 『裏僕』 → 『ナイトレイド/TRIGUN(再)/クェイサー』
06 火曜 『RAINBOW』 → 『けいおん!!/一騎当千』 → 『クェイサー』 → 『薄桜鬼』
07 木曜 『四畳半』 → 『さらい屋』 → 『おお振り・夏/B型H系』 → 『メイド様/真・恋姫2』 → 『テガミバチ(再)』
08 金曜 『うしろの大魔王/真・恋姫2』 → 『デュラ』 → 『AB!』
09 日曜 WORKING!!』 → 『セキレイ(再)』 → 『ROD(再)』 → 『B型H系』 → 『薄桜鬼』 → 『荒川/一騎当千XX/裏僕』 → 『ケロロ

10 月曜 オオカミさん』 → 『裏僕』 → 『オカルト学院/生徒会役員共/あそびにいくヨ!』 → 『セキレイPE』
11 火曜 『RAINBOW』 → 『けいおん!!/オオカミさん』 → 『HOTD』 → 『HOTD』
12 木曜 屍鬼』 → 『アマガミ』 → 『メイド様/ストパン2』 → 『伝勇伝』
13 土曜 生徒会役員共』 → 『ストパン2』 → 『カンパネラ』
14 日曜 『デュラ(再)』 → 『セキレイPE』 → 『みつどもえ
15 日曜 生徒会役員共』→ 『オオカミさん/裏僕』 → 『ケロロ

16 月曜 『百花繚乱』 → 『えむえむっ!』 → 『ざくろ/薄桜鬼2/俺妹』→ 『ミルキィ』 → 『イカ娘』
17 火曜 君に届け(再)』 → 『君に届け(再)/百花繚乱』 → 『俺妹』 → 『もっとToLoveる』 → 『パンスト』 → 『そらおとf』
18 水曜 えむえむっ!』→ 『そらおとf』 → 『神知る/ミルキィ』
19 木曜 海月姫』 → 『屍鬼』 → 『アマガミ』 → 『それ町/ヨスガ/パンスト』 → 『伝勇伝』
20 金曜 『そらおとf』 → 『FA/禁書目録2』 → 『咎狗の血
21 土曜 テガミバチR』 → 『薄桜鬼2』 → 『パンスト』 → 『禁書目録2』
22 日曜 『薄桜鬼2』 → 『荒川2/百花繚乱/えむえむっ!』 → 『ケロロ

時間が完全にかぶっていたり、15分かぶっていたりするので、このラインをライブで視聴することはできません。
編成のプロが考えて作っているでしょうから、各局ごとラインを分ければカオス感も薄れるかもしれませんが、何の因果か同じ曜日の似たような時間に放送してしまったが運の尽き、各番組には協力して優勝を目指してもらいます。


キー局に決まった枠が用意されている火曜、木曜は全クールでエントリー。
【01】時間帯が深くなるにつれ一枚ずつ上着を脱いでいくようなラインが事故的に発生。
【03】『超電磁砲』『デュラ』『おおふり(再)』と充実のラインナップも、まさかの『キディガ』でサンドイッチ。オセロならこのラインは全て『キディガ』に。
【06】少年院を見守った後に、お茶会をしている高校生/テクニカルな服の破りあいをしている高校生を同時に経て、おっぱい→乙女とテンションの差が激しいライン。
【07】かぶっている時間帯でどちらを選択するかでラインの印象も変わるだろうが、いずれにせよ良作揃い。
【08】『うしろの大魔王』『AB!』と謎の神様ライン。面白いラインだがMPを削り取られるような印象。
【11】ライブで見ると、『HOTD』の後半を2回見られるというテクニカルなラインを形成。
【12】良作揃いも、オンエアタイムがすべてちょっとずつ食い合って損をした、サッカーオランダ代表チームみたいなライン。
【17】このご時世に、MX純正で『百花繚乱』『もっとToLoveる』『パンスト』『そらおとf』という2時間のラインが出来たのは素晴らしい。
【18】狂ってる人の博覧会ライン
【19】そうそうたる顔ぶれも互いに食い合う勿体無いライン。「責任者はどこか。」
【20】「ちょwww」のテンションで終始ツッコミを入れながら見たい作品。


ラインで言えば、春秋:木曜【07】【19】が強いだろうか。春秋:金曜【08】【20】は見る側の度量が試されるハイテンションライン。月曜もなかなか面白いラインを形成。
総合力では、やはり木曜日が強いです。

曜日で振り返る、2010年TVアニメ

曜日でひとつのグループとし、優良曜日を決定。

  • ルール
    • 再放送は含まない
    • U局では重複する作品も出てくるが、楽しそうなので気にしない
    • 継続2クールものは1作品とする、

<本数>

19 17 8 21 14 17 21

水曜が少ないのは体感的に分かっていたことだけど、差があまりはっきりしないのでルールを変更し、U局をMXに限定。
<本数(MX限定)>

8 14 4 19 10 2 11

tvkは土曜、テレ玉は月曜・日曜にまとまった枠を設けているためその分が減りました。
水曜が少なく、木曜が多いのは印象通りという感じ。TBS金曜25:55〜の枠も、主管局のMBSでは木曜に放送されていることを考えれば、木曜日がもっともアニメの放送される本数が多い日といって差し支えないでしょう。
本数の少ない水曜に放送すれば話題を独占できるかと言えば、そうでもないというのが面白いところ。
放送数が多い曜日の方が、他局に負けじと互いに切磋琢磨し、良作品を生み出すことになっている模様。視聴者にしてみても、同じ時間帯に放送されている作品のどちらを見るか、どれを録画するかの「選択」をすることになるので、「これしかやってないから見る」と「数ある中からこれを見る」なら後者の方が思い入れが強くなる可能性はあります。この「選択」をする際には、あらかじめ作品に順位付けをする必要があるので、作品そのものと「視聴者の期待度」が比較的近くなり結果的に「満足度」も高まる相乗効果もあるかもしれません。

時間帯で振り返る、2010年TVアニメ

放送された作品は25:30〜が最も多いが、MXの23:00〜は『WORKING!!』『迷い猫』『ぬら孫』『ミルキィホームズ』を揃えるなど気を吐いています。
遅めの時間帯である26:30〜には、『クェイサー』『バカテス』『おまもりひまり』『キディガ』『うしろの大魔王』『あそびにいくヨ!』『パンスト』『禁書目録2』と深夜のテンションで見たい作品が並びます。
曜日と同様、競合相手のいる時間帯はブーストがかかる可能性があるでしょう。

クールで振り返る、2010年TVアニメ

同じクールに放送されたことで、話題作の影に隠れてしまった作品や、時間の都合がつかずスルーされた作品、資金の工面がつかず購入を控えた作品など同じクールに放送されることは、一種の運命共同体のような関係を持ちます。「○クールは豊作/不作」のように言われることもあるのだから尚更でしょう。
同じ枠で放送された作品で勝負させ集計することで、2010年はどのクールが一番アツかったかを振り返ります。

  • ルール
    • 勝負するのは同じ枠内で放送された作品
    • 枠エントリー条件は、新作が2本以上(比較させるため)放送されたこと
    • 2クールものは、よりアツかった方のクールが取る
    • 集計の都合上U局はMXを代表とする
3 君に届け』『超電磁砲』『テガミバチ
5 『クェイサー』『けいおん!!』『迷い猫』『四畳半』『おお振り・夏』
4 生徒会役員共』『HOTD』『メイド様』『黒執事2』
9 『タクト』『俺妹』『荒川2』『ざくろ』『百花繚乱』『えむえむっ!』『屍鬼』『伝勇伝』『ヨスガノソラ

秋季クールの圧勝という結果に。

番組表で決める、2010年TVアニメ

これまで5つの部門分けをして2010年TVアニメを振り返りました。
ここでは、これらで得られた情報をもとに番組表に愛されたアニメを探し出しましょう。


これまでのまとめ

部門 特徴
製作側でプランニングされてると強い
流れ 良作の月曜、紳士の火曜、安定の木曜、混沌の金曜
曜日 本数が多いほうが吉。木>火・金・日>月>水・土
時間 競合相手がいる方が強くなる可能性。金曜深夜は視聴者のテンションもおかしくなる
クール 秋>春・夏>冬

これらをもとに「番組表に愛されている作品」を選出。

  • 評定基準
      • ◎-2pt:年間通して枠を維持(3本以上の新作)
      • ○-1pt:2本以上の新作を放送
      • △-0pt:新作の放送が2本未満
    • 流れ
      • 曖昧なので今回は加味しない
    • 曜日
      • ◎-2pt:木
      • ○-1pt:月・火・金・日
      • △-0pt:水・土
    • 時間
      • ◎-2pt:同時間に3本以上放送
      • ○-1pt:同2本以上
      • △-0pt:単独
    • クール
      • ◎-2pt:秋
      • ○-1pt:春・夏
      • △-0pt:冬
    • U局放送作品について
      • 曜日、枠は3局の中で最速で放送された局にてエントリー。
作品名 曜日 時間 クール pt
ソ・ラ・ノ・ヲ・ト 4
聖痕のクェイサー 4
ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド 4
君に届け 3
バカとテストと召喚獣 0
おまもりひまり 0
のだめカンタービレ フィナーレ 5
キディ・ガーランド 3
ひだまりスケッチ×☆☆☆ 4
おおかみかくし 5
とある科学の超電磁砲 2
テガミバチ 0
はなまる幼稚園 4
デュラララ!! 4
閃光のナイトレイド 5
裏切りは僕の名前を知っている 6
一騎当千 XTREME XECUTOR』 6
『RAINBOW-二舎六房の七人-』 4
けいおん!! 4
迷い猫オーバーラン!』 4
『薄桜鬼 〜新選組奇譚〜』 4
四畳半神話大系 5
さらい屋五葉 7
おおきく振りかぶって〜夏の大会編〜 7
B型H系 5
真・恋姫†無双 〜乙女大乱〜 7
『会長はメイド様』 7
いちばんうしろの大魔王 5
WORKING!! 2
荒川アンダー ザ ブリッジ 6
Angel Beats! 2
世紀末オカルト学院 6
生徒会役員共 3
あそびにいくヨ! 3
オオカミさんと七人の仲間たち 4
セキレイ〜Pure Engagement〜 4
ぬらりひょんの孫 4
学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD 6
ストライクウィッチーズ2 3
黒執事2』 4
祝福のカンパネラ 5
みつどもえ 2
屍鬼 7
『伝説の勇者の伝説』 5
アマガミSS 7
おとめ妖怪ざくろ 7
侵略!イカ娘 3
薄桜鬼 碧血録 4
えむえむっ! 7
百花繚乱 SAMURAI GIRLS 7
海月姫 7
それでも町は廻っている 8
ヨスガノソラ 8
『Panty & Stocking with Garterbelt』 4
そらのおとしものフォルテ』 3
とある魔術の禁書目録2』 6
俺の妹がこんなに可愛いわけがない 4
神のみぞ知るセカイ 3
探偵オペラ ミルキィホームズ 4
もっとTo LOVEる -とらぶる- 6
FORTUNE ARTERIAL 赤い約束 4
咎狗の血 5
テガミバチ REVERSE 2
荒川アンダー ザ ブリッジ×2』 7
鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST 3
戦国BASARA弐』 4
STAR DRIVER 輝きのタクト 5


上の表で獲得ポイントが多いにもかかわらず面白くない、獲得ポイントは少ないけど面白い作品というのがそれぞれ人によって出てくるはずです。その差が、作品自体の持つ力ということになるでしょう。
このポイントが高いということは、競合する番組が多いということです。激戦区にありながら、それでも視聴されるなら、その作品は相対的に良作だろうと予想されるはずです。結果を見てみましょう。

やはり、フジ・TBS・テレ東・MX(秋はテレ玉も)が枠を用意する木曜日は数が多くなりました。継いで、25:30〜からテレ東・tvkテレ玉の三局で競合する日曜日。月曜日には「アニメノチカラ」枠が新設(実質復活?)されたことでプチ激戦区の様相を見せ始め、MXの『TRIGUN(再)』が終わった夏・秋から、その時間帯の作品が多めにポイントを獲得しはじめた模様です。金曜日では、テレ東が秋から枠を新設した関係でMXの禁書が棚ぼたでランクインとなりました。
この結果を簡単にまとめるなら、木曜25〜26:30頃、日曜25:30〜、月曜25:30〜、火曜26:00〜に放送される作品が番組表に愛される傾向があるということでしょうか。

おまけ

参考までに、上記オンエア枠で2009年の同時期に何が放送されていたかを調べてみました。

なんと言うか、非常に形容しがたいラインナップになりました……。恐らく、2009年の番組表でやれば違った結果も見えてくるでしょう。
という訳で、番組表の番付は当該クールにおいてのみ有効ということを理解した上で、上記の時間帯で放送される2011年冬アニメを確認しておきましょう。

という感じです。放送本数がかなり減っているので、来期は番組表の呪縛はあまり生まれないような気もします。

おわりに

以上、2010年TVアニメを番組表で振り返ってみました。みなさんの好きな作品は番組表にどんな影響を受けていたでしょうか。


ちなみに私の好きな作品は『戦う司書 The Book of Bantorra』です。
お後がよろしいようで。

『ヨスガノソラ』の方程式:「境界」「鏡像」「水と火」

ヨスガノソラ』は、「境界」「鏡像」「水と火」の三点に注目することで作品をシンプルに楽しむことが出来るではないでしょうか。
エロゲ原作で、ヒロイン毎のルート(しかもサブタイトルで明示される)となれば、そこで描かれるストーリーは約束された結末(=セックス)への序章(=前戯)にすぎないのかもしれません。勿論、ストーリーをしっかり追いかけキャラの心情を理解し作品を楽しむのが一番なのでしょうが、前記したような「どうせ最後には上手くいってセックスする話」の整合性を「言葉」でもって追いかける域には達していない私としては、登場人物の行動原理を「映像」から得られる情報をもとに推測し、逆算的にストーリーを追う方が得策だろうと思った訳です。
言うなれば「言葉」派が前戯からセックスを一連の流れのうちに行うなら、「映像」派は約束されたセックスの為に前戯をある種遡行的に試みるということです。行き着く先はどちらも同じですが、行為(セックス)から逆算された過程(前戯)というのは、それ自体が行為(セックス)であると言い換えることができるのかもしれません。
要するに今回は、ルートヒロインは如何にして春日野悠とセックスするに到ったのか、その傾向を知ることで作品をより楽しもうという話です。


今回注目する「境界」「鏡像」「水」はOPでも、印象的に描かれます。
境界



鏡像






この場合、境界は車線。鏡像は窓に映る幼い悠と穹。水は漂うかのように描かれる穹、プールに浸かりラスボス感を漂わせる奈緒、ラストの濡れた悠と穹です。

  • #01

ここでは「境界」に注目します。この挿話は全ヒロイン共通のものなので、




境界を意識させると一方で、



廊下や橋のように、悠とヒロインを同線上に置くこともしています。
つまり、今後の展開次第で関係はどうとでもなり得る、まさにスタートの状態にあります。

  • #02(AK2)

今回は「水」に注目です。火は別にまとめます。


水には、洗礼や清めのような象徴的な意味もあるわけですが、この後、悠が、


……と、煩悩まみれで欲望の赴くままの行動をしていますから、ここではホースから飛び出す水は性的欲求のメタファー、毒島先輩の言葉を借りるなら「濡れるッ!」と考えた方がすんなりいくでしょう。
先に言ってしまうと、この作品の登場人物は「濡れると発情する」という特徴を持っています。

  • #03(K3)

ここからは一葉のルートです。



瑛と一葉の「秘密の関係」を知った後の橋上での二人の位置関係は、同線上に配置されます。つまり、この二人に注目してくださいというメッセージみたいなものです。




境界を意識させるのは上の場面でしょう。この時の一葉のセリフは「誤解しないでよ」です。話がこれから進んでいくことになるけど、そのどこかには誤解があるらしいということが窺い知れるのです。
この境界を意識させる画面は大まかに言えば、「ヒロインと悠の心の距離」と「超えなくてはいけない障害」の二つの意味合いを持っています。つまり約束された結末を迎えるには、二つの意味で境界を乗り越える(越境する)必要があるということです。
そう考えればこの場面において二人は、そこまで親密であるとは言えず、誤解という障害もどこかに残っているということになるのでしょう。


続いては境界を越える、越境のシーンです。


この場面では、パラソルの柄が境界になっています。一葉から差し出されたラムネを悠が境界を越えて受け取る、親密な関係になりつつあることが暗示されています。
何故この場面で越境が起こったのか。その答えは、このシーンの直前を見ることで分かります。



ラムネ噴出しちゃってます。海に行きながらも濡れることのなかった悠ですが、ラムネが己のリビドーを象徴するかのように射出され濡れちゃっているわけです。
この場面、メイドの丁度ケツの割れ目が境界線になっていますが、この「濡れ」がきっかけで、前述のパラソルの柄とあわせて越境が起こります。濡れると発情する人たちですから、この辺りからがルートということを意識し始める段階なのでしょう。


帰りの電車では、座席と通路で境界を見せます。悠と穹の境界です。二人の関係を穹が認識したという事でしょう。
あっさりしているように思えますが、一葉と瑛のルートでは穹の部屋には借りてきた蚊帳が設置されいます。文字通り穹は蚊帳の外に置かれ、ストーリーにそこまで大きな影響は与えません。


(以後、赤線=心的距離、黄線=越えなくてはいけない障害、青線=同線上の強調)


日が変わって。一つ目の境界、つまり悠と一葉の「心の距離」という境界は越えたものの、まだ「障害」という境界は残っているので再び境界が描かれます。


悠にとって障害となりそうなのは穹ですが、一葉との関係には(電車の描写から分かるように)一応お墨付きを頂いているはずですから、これから描かれるのは一葉の超えるべき障害と考えるのが妥当でしょう。






上にあげた場面からも分かるように、一葉にとって「超えなくてはいけない障害」となっているのが、父と瑛のことです。これが冒頭にもあった誤解の大元にもなっているわけですが、右のカットでは瑛と一葉の父は同線上にいるようにもとれる描き方がなされています。つまり、当人たちは一葉が思っているような悪い関係ではない=誤解の原因になっているのは一葉自身であるかもしれないことが示唆されているのです。


「超えなくてはいけない障害」という境界を見せた後に、再び「心の距離」の境界を描くことで双方をより印象付けます。



境界越えのキスの後、アングルが変わると二人は同線上にいるというカットです。完全にルートに入ったと言えるでしょう。
瑛と穹は端によって、主役に道を譲ります。



中央に鎮座することで障害として描かれた瑛が端に寄っているこのカットは、一葉は色んなことを瑛のせいにしてるけど、本当はそんなことはないのにねという意味も持っているでしょう。


先に進む前に、「鏡像」について触れておきます。
像を写す鏡やガラスは境目の意味を持ちます。この作品では境界を意識する必要がありますから、そこに映りこんだ像は、乗り越えなくてはならない人物、もしくは決断しなければいけない人物を示すことになるでしょう。
ここでは、車のバックミラーに映りこんだ一葉の姿に注目します。


寝ている一葉は、鏡に映った自分の姿を見ていません。「諸々の問題は父にあるということにしている自分」のことを見ようとしていないのです。
他にも車のルーフに映る空は、空→ソラ→穹を想起させますし、鏡像ではないものの車のガラス越し(境界越し)に見える一葉の父の姿というのも印象的ですから、これも一種の鏡像としてもいいのかもしれません。

  • #04(K4)

この挿話では、まず鏡像に注目します。



バックミラーにはっきり映りこんだ一葉とは対照的に、廊下には瑛の姿は微妙にしか映りこみません。加えて、この後 瑛が階下という境界の向こう側へ行ってしまうこの場面は、この挿話の前半の展開を予期するかのようです。


瑛が過労で倒れるところで境界での描写、



畳の合わせ目に華麗に倒れることで、話の中心(一葉が超えなくてはいけない境界と思い込んでいる)に瑛が再び引っ張り出されます。疲れてるのにね。


瑛と父の関係を半ば言い訳にして自分自身や父から逃げている一葉は、境内で瑛と対峙します。



ほうきの柄によって作り出された境界を越え、思いを伝える一葉ですが「私を言い訳に使うな」と瑛に痛いところをつかれ敗走します。本当に超えるべきは自分自身だからです。


なんやかんやあって、祭りで境界(心的境界)を越えてきた悠と、思い込みではない瑛と父の本当の関係(超えなくてはいけない境界)を一葉が見る、晴れてセックスでフィニッシュです。お疲れ様です。




このように、注目すべき三点について簡単に要約するなら、

『境界』=「悠とヒロインの心の距離」と「超えなくてはいけない障害(懸案事項)」
『鏡像』=「超えなくてはいけない障害」を乗り越えるべき人物
『水』 =発情(欲望の赴くままに行動するため)のスイッチ

になるでしょうか。
これを踏まえて、続いて瑛ルートは確認程度に。

  • #05(A3)




これは心の距離を表す境界が描かれるカットになると思われますが、瑛が境界上にいることが分かります。つまり、この二人は初めから割りと親密な関係を結べているということになるでしょう。その後描かれる悠と奈緒が歩く畦道の轍の境界(右)と比較すれば一目瞭然です。


という訳で、ここでは境界が「超えなくてはいけない障害」の意味で描かれる回想の場面に注目します。



非常に仲良く見える二人ですが、幼少期に二人で遊んでいたときに瑛が大切にしていたペンダントを失くしてしまったこと、これが悠にとって心の奥底で障害になっているようです。悠が半ば強引にペンダント探索を提案するのは、こういった理由があるからでしょう。
既に親密とも言える二人が障害を取り払う儀式として行うこの探索で、沢に落ちて濡れる→風呂でセックスという流れが起こったのは、必然だともいえるでしょう。心的距離が近く、二人共濡れて発情すればセックスくらいしますよ。


が、事後。二人の間には明確な境界が描かれます。心的距離は近づいているはずの二人ですから、これは「超えなくてはいけない障害」の方、悠ではなく瑛が目下抱えているものが問題になることが予見されます。

  • #06(A4)

このルートでの鏡像の主は一葉の母親です。彼女が、これまで言わないできた瑛の出生の秘密(誤解:瑛と一葉は取り違えられたかも)を正しく瑛と一葉に伝える必要がある。つまりこれまでの自分を越えなくてはいけないことになります。


彼女が本当のことを伝えて誤解を解き、和解して(障害を越えて)ハッピーセックスです。お疲れ様です。




一葉ルートと同様、ここでも穹は「蚊帳の外」ですから、大筋にはあまり絡んできません。


このルートを踏まえた上で、注目すべき三点についての関係性を確認して次に進みます。

まず「悠とヒロインの心的距離」を示す境界が描かれる。それを超えるには『水』に濡れて発情する必要がある。つまり、濡れることは発情=境界を超えるためのスイッチになっている。境界は心的距離だけではなく、ヒロインと「超えなくてはいけない障害(懸案事項)」の関係も表す。これを超える決断をしなくてはならないのが鏡像の人物である。

  • #07(NS2)

奈緒ルートと穹ルート共通の挿話です。これまで文字通りの意味で蚊帳の外にいた穹ですが、蚊帳が蚊取り線香に変わったこともあって呪縛を解き放たれ、話に大きく絡んでくることになります。
境界を意識させるカットをいくつか参照します。





左からの時系列順になっています。
2つ目までは心的距離を示すものでしょう。過去に一騒動あった悠と奈緒が心の距離を測っているという感じでしょうか。この境界を越えてキスをしようとする二人ですが、越境のスイッチとなる「水」はどこにあるでしょうか。ここまで奈緒はプール掃除、風呂と水に濡れる描写がされていますが、悠は濡れていません。しかし、ここで二人がしている会話に注目すれば答えが見つかりそうです。
この場面、二人は思い出話をしています。悠と奈緒の過去の出来事で重要になっていること、それはあの逆レイプ事件でしょう。つまり二人は過去に「濡れ場」を経験し、ぐちょぐちょに交わっているわけです。だから思い出話が心的距離の越境のスイッチになったと考えられるのです。

3つ目、穹がふすまを開けることでキス(越境)は未遂に終わります。ここで二人を分かつように新たに登場する穹は、「超えなくてはいけない障害」という二つ目の意味での境界になるでしょう。

そして4つ目、窓越しの穹の姿です。これは一種の鏡像とも考えられるのは一葉のところでも触れました。このカットでは窓だけではなく、窓枠でも境界が描かれます。窓枠が分かつのは、穹とぬいぐるみです。ぬいぐるみは母との思い出、すなわち過去を象徴するような意味を持っているでしょう。
つまり、これから描かれる話で「障害になるのは穹」で、「決断しなくてはいけないのも穹」だということが、これらのカットで示唆されているのでしょう。穹が何を決断しなければいけないか、それがぬいぐるみに象徴された「過去の出来事」や「抱えてきた思い」となるでしょう。穹が自分の中でどう決着を付けるかが、これから描かれる二人のルートの根幹に関わってくるということになりそうです。

日が変わって、謀略によってプールで発情を促し、境界を意識させる画面の後に「過去の出来事はイヤではなかった」と悠が伝えることで、二人の間にあった過去という壁が取り払われ、未遂に終わっていた越境がおこります。




今一度確認しておかなければならないのが、これが奈緒だけはなく穹の挿話でもあることです。つまり穹は、濡れて発情し奈緒との境界を越えている悠を攻略しなくてはいけないことになるわけです。さらに、過去と決着をつけ自分で自分の境界を越えなくてはいけないのだから大変です。

  • #08(N3)

既に越境済みの悠と奈緒は、境界を意識させるために繰り返し使われた畦道でも同一線上に描かれ、その親密さを思わせます。


ここからは、穹の視点も考えて物語を見る必要があります。
このルートで「超えなくてはいけない障害」になっているのは穹です。しかも、その境界を越えなくてはいけないのは悠と奈緒というよりも、他ならぬ穹自身であることが鏡像により示されました。やっと物語の表舞台に立った穹ですが、そこから降りる必要があるということです。


穹と悠の間には渡り廊下が描かれ、その断絶が見て取れます。その渡り廊下に表れるのは奈緒です。穹から見れば奈緒は邪魔者=障害なわけですが、これは奈緒のルートですから、そう考えている穹自身が二人の邪魔者=障害になっているということです。
ここで穹は蛇口の水を自身で浴びます。抑えきれなくなった己の欲望を噴出させ、濡れる=悠との境界を越えようと準備を整え始めるわけです。


弁当を持ってきた奈緒と悠、そして穹の場面は穹が二人の間に。階段を降りる穹の姿は廊下にはっきりと、その像を結びます。境界と鏡像です。



悠と奈緒の情事を目撃した穹は、奈緒を家から追い出します。ここから目に見える形で、穹が奈緒にとっても超えなくてはならない境界として立ちはだかることになります。


穹が明確な境界であることが分かった後の窓越しのカット。一種の鏡像ですから、この境界は3人で越えなくてはならないものでもあることが分かります。その後も、境界を意識させるカットが続きます。



この窓越しのカット、#07(NS2)の窓越しカットとよく似ています。擬似同ポを使うことで、穹が過去側に近づいていることが分かるでしょう。#07ではぬいぐるみが過去の記号となっていましたが、ここではそこに悠と奈緒がいます。この二人は幼い頃に一騒動あって、穹もそれを目撃して知っているわけですから、その件について決着をつけなくてはならないということになるのでしょう。


この後に登場するのが、真の鏡像です。悠と奈緒が一緒にいる姿を憎らしい表情で見ている姿が、窓に映し出されます。二人の関係を好ましく思っていない自分というのが、このカットで穹の超えなくてはいけない境界だというのが分かります。


#09(N4)
心的距離は近づいている悠と奈緒ですが、二人の間には穹という懸案事項があります。浮かない表情を浮かべる二人の間に描かれるパラソルの柄は、それを表しているでしょう。


続いて、海で溺れた悠の救命処置をする奈緒の姿を、穹が目撃する場面です。




二人とも海に入っているのだから当然濡れて発情しています。悠の方は、まぁ性欲に溺れた人間とでも理解しておいて、奈緒はどう解釈する必要があるでしょうか。発情とはつまり、欲望の赴くままに行動することです。過去のこともあって、穹は奈緒のことを乳デカ淫乱ウザ眼鏡みたいに思っているでしょうが、この行動を見たことで考えを改める必要がある=「超えなくてはいけない障害」を自覚し始める段階に入ったということが分かってきます。


そうは言っても、そんなに簡単に決断できるものではありません。そんな時に、悠は自分(穹)を超えて奈緒の方へ行ってしまいます。


ここから穹は、悠と奈緒が二人でいるときを狙ってメールを送ったり、仮病を使って悠の気を引こうと最後の抵抗を始めます。これが効いて、二人の間には再び境界が生まれます。


そして家出です。


探索の途中で雨が降り出します。境界を越えるのに必要な儀式=濡れることを叶えてくれる恵みの雨といえるでしょう。
ここでも、擬似同ポが使われます。



家庭の不和で落ち込んでいた奈緒のもとに来てくれた悠、同じく逃げ出した穹のもとに来てくれた奈緒という具合です。何度も言いますが、この挿話で決断を迫られているのも、それから逃げているのも穹なのは鏡像からも明らかになっています。意地悪に言ってしまえば、もたもたしてる穹と、しびれを切らした奈緒の直接対決の場面とも考えられるわけです。二人とも濡れて越境スイッチがオンになっていますから、それこそEDのように殴りあいが起こる可能性すらあったと言えるでしょう。




この後、落雷により炎上した待合所、そこに残されるのは過去の象徴 ぬいぐるみです。悠と奈緒が付き合っていくということは、穹にとってみれば過去やこれまでの思いを消失(焼失)してしまう、もとい自分自身の存在が無きものにされるも同然なのです。それを救い出したのが奈緒です。伊達に眼鏡かけてません。


で、晴れて穹公認の関係になって青姦でフィニッシュです。お疲れ様でした。悠は特に何もしてませんね。リムーバブルちんこみたいな奴です。

  • 「火」について

「水」と対応するのが「火」です。
水が無意識の欲望のスイッチなら、火は意識化の着火装置とでも呼べるかもしれません。つまり、

水=心的境界を越えるためのスイッチ
火=障害となっているものとの境界を超えるためのスイッチ

になっている可能性が高いというわけです。




一葉・瑛・奈緒の各編で登場する火です。
これら火が登場した後は、必ず水が登場します。一葉編で言えば、太陽は水平線の向こう側(水の中)へ消えるように見えますし、瑛編は燃やしたノートを悠が鎮火します。奈緒編でも、火事の小屋に飛び込んだ後は、雨に打たれることになります。
障害となっているものを超えるための心の燃え上がりを表す「火」と、ヒロインと悠の心の境界を越える発情スイッチの異名を持つ「水」で消すことは、これらが密接に関わっていることを示しているでしょう。
つまり、懸案事項(火)を解決した後のセックスこそが真のセックス(水)で、そっちの方が断然気持ち良いみたいな感じの話です。




残すは穹のストーリーのみとなりましたが、奈緒との共通エピソードで大きく出遅れ、兄妹という一線(境界)をも越えることになるであろう このエピソードも、「境界」「鏡像」「水と火」に注目して見れば、作品をより一層楽しめるかもしれません。

  • 『境界』=(1):「悠とヒロインの心の距離」、(2):「超えなくてはいけない障害(懸案事項)」
    • 同一線、境界線上に配置される場合はそれぞれ、(1)親密度の強調、(2)障害因子となっていると思われる人物を意味することもある。
  • 『鏡像』=(2):「超えなくてはいけない障害」を乗り越えるべき人物
    • ガラス越しの場合は、(2)で障害因子となっている対象
  • 『水』 =(1)の「心の距離」を超えるための発情装置(欲望の赴くままに行動するためのスイッチ)
  • 『火』 =(2)の「障害」を超えるための着火装置


火怖いね。

『アマガミSS』上手の女神 七咲を陥落させた橘さんに学ぶ

舞台には上手(かみて)と下手(しもて)がある。
客席から見て右が上手、左が下手。文字通り上手の方が上位のものとして扱われている。

  • 光のとれる南向き(つまり北)に舞台が作られたので、陽が昇る方角である東(客から見て右)の方が西(同左)より上位。
  • 更に遡って、故事にある「天子南面ス」から左大臣・右大臣を例に、帝からみて左(東:向かって右)に位置する左大臣の方が、右大臣(西:同左)より位が上。
  • 人間の心臓が左にあるので、強そうなものは右に置いておきたい。

など起源となりそうなものは多々あるようだが、何にせよこの上手・下手の概念は基本として知られている。

上手・下手は何も伝統芸能や舞台演劇に限られたことではない。
よく知られているのが『ウルトラマン』だろう。正義の味方であるところの「ウルトラマンは右」「怪獣は左」で対峙する。影響を受けているといわれる『エヴァ』でも、「エヴァは右」に「使徒は左」というのが基本。バルディエル(参号機)戦のダミープラグの起動時にはこれが崩れ、初号機が左から使徒の首を絞める。トウジ(もしくはアスカ)が乗っていることに加え、いつもは敵がいたはずの左に初号機がいることが見ている側の不安を更に描き立てる。先日放送されていた洋画『アルマゲドン』でも、地球を滅ぼす脅威であるところの彗星は右から来襲し、その存在の強大さを際立たせる。『吉本新喜劇』なんかでも、来客は左から主は右から登場することで、これから起こることや立場を観客に理解、想像させている。

このように、「左右どっちにいる」か「左右どちらから来るか」だけでも、そこにいる人物たちの関係性を、例えば上手(強い・正義・本音・ホスト・未来)と下手(弱い・悪・嘘・ゲスト・過去)のように無言のうちに理解させ、意味付けすることが出来る。

アマガミSS』13話「七咲 逢編 第一章 サイアク」でも、これを意識して見ると非常に面白い。


これまで七咲のことは、1学年下の水泳部員で美也の友達ということ位しか描かれておらず、どんなヒロインなのかを視聴者は知らない。

2年前の出会いからしてそうだったのだが、再びの出会いである公園のシーン。上手にいるのは七咲だ。





おしっこがしたくなって偶然駈け込んだ公園で、スカートの中を見せてブランコから飛び降りた知らない女から「痴漢だ。通報する。」と言われるなど理不尽以外の何者でもないはずだが、上手に鎮座ましますところの謎の女(しかも可愛い)がそう仰っているし、同じ一年生相手に先週まで教官プレーに勤しんでいた本来猛者であるはずの橘さんから漂う圧倒的な弱者の風合いも手伝い、「この女は一体何者なんだ」と新たに登場したヒロインの攻略難易度の高さを伺わせる。


登校風景。





美也は左側。薫は右から登場。本来の橘さんなら下手側からでも相手を圧倒できる面白さがある。



その後、カットインする七咲の姿はやはり橘さんより画面の右側にいる。上手の女神それが七咲 逢。







食堂でも、体育館裏でも、スカートの中の水着を見せるときもいつも上手から。橘さんが弄ばれてる。








下手側に廻ったかと思えば、そのご尊顔を拝すことができないという徹底っぷり。恐るべし。でも、猫なら自分より右にいてもいいよ。








自己紹介でようやく下手に下りてくれるが、それでも橘さんよりは右にいる。後日再会してもまた右。底知れぬ強さ。








相手にされない美也と、前妻をいじる美也。













!!







!!!
七咲が左にいる!きっとこの辺に何かあるぞと思わざるを得ない。もちろん、左にいるのにその内実は、買い物に付き合わされ荷物持ちにされてるという滑稽さもある訳だが、きっと何かある。








カメラが変わって「おめでとうございます」と、すかさず定位置を確保する七咲。同じバックショットでも食堂の時とは違い、顔がチラッと見える。買い物に連れてきた理由の半分は福引にありそうだ。
福引と言えば、前日美也が商品のハワイ旅行が欲しいという話をしていた。それは水飲み場での件で七咲も知っていることだ。その後に一緒に買い物に行くことを七咲から提案してきた。
「商品券はあげる」と言われた七咲はどこか寂しげ。これらの出来事と、冒頭で弟にクリスマスプレゼントを贈ることを嬉々として当時は見知らぬ橘さんに語ったことを考えると、七咲は弟との関係に何か抱えているのだろうということがぼんやりと見えてくる。弟と不仲なのかもしれないし、弟が病弱だったり引きこもりだったり、どうしようもなく変態であるのかもしれない。









その後、ささやかだけど秘密の共有。七咲は右、右、右。弟関連といい七咲は面倒見がいい娘なんじゃなかろうか。もしそうなら、年下のお姉ちゃんキャラという素晴らしい展開。夢が膨らむ。




その後が橘さんの腕の見せ所。





海岸のゴミ箱は水泳部が設置していると聞くや否や、上手側に落ちてるゴミを発見。ダメな年上キャラが思わぬところで見せる一面。一種のギャップ萌えだ。ここで二人の立ち位置は逆になる。恋の予感。
画面の上手と下手を意識するだけでも、言葉では語られないストーリーが見えてくる。


二人の関係性という点においては、他にも面白い描写がある。



出会いの時、二人の間にはブランコが。その後も道路、階段と間を遮るものが描かれる。
その後、柱、電柱がいずれも七咲から橘さんへの方向に配置され七咲側から何らかのアプローチをしている様子。先に挙げた福引のテントを経て、海岸のベンチでの二人の様子は柱に挟まれた形で描かれ親密度が増している様が、これも無言のうちに語られている。
ラスト二人がいるのは何処までも続く海だ。



言葉では語られることのないメッセージが、画面には沢山隠されている。

『けいおん!!』物語の輸入を試みる貿易の軌跡

日常がそもそもフィクションである

ひだまりスケッチ』『らき☆すた』『みなみけ』そして『けいおん!』等々「日常系アニメ」と呼ばれる作品は多い。これらは、作品と視聴者がある種の共犯関係を結び作品内部における日常というイメージを共有する作品群だろう。

大きな共同幻想が持てない状況下だとしても可能な、これらの小さな共同体の物語の共有は、『作品内部に拡がりを持たない箱庭を構築すること』、『「私」的目線を持ち込まず傍観者に徹すること』などを条件に、箱庭内部でのルールに則り描かれるフィクショナルなストーリーを「日常」として扱い提供・享受することで成立する。
外部との接続のない閉じられた檻の中で描かれる出来事を「私」的目線なしに観察する訳だから、物語は発生しにくく(必要なく)、ケージの中の小動物をただ愛でられればいいというような需要に支えられ、日常系アニメはひとつのジャンルとして人気を得ている。つまり、日常のイメージを共有、成立させるためには、箱庭という舞台の存在が重要になる。

実在の風景を持ち込むこと

けいおん!」では、背景に京都の街並みが描かれ、キャラが使うモノも実際に商品として売られているものが使用されており、放送直後にそれらが「特定」されている。これらは、高校球児にとっての甲子園、修学旅行生と清水寺、大きなバッグと駅・空港というようなそれだけで記号的な意味を持つものではなく、キャラの歩いた道や普段使いの日常品のような特別な意味を持たないものにおいて持ち込まれる。フィクションを成立させるための箱庭に現実世界の風景を輸入し虚構世界を構築するという手法だ。

このような手法のブームの火付け役になったのが、同じ京都アニメーション制作の『らき☆すた』だろう。『らき☆すた』は4人の女子高生が「日常」生活を送る姿を観察するキャラクターアニメだ。物語が必要とされず、キャラが箱庭の中に居続ける(逃げない)ことが保障されているのが人気を獲得した一因として挙げられるだろう。これに加え、作中に登場する鷺宮神社のモデルとなった鷲宮神社にファンが「聖地巡礼」をする様子も話題になっている。彼らは虚構世界に輸出された風景を「ここに○○の歩いた道がある」と現実世界に再輸入している。つまり、この虚構世界の箱庭に実在の風景を落とし込む手法は、その箱庭と現実世界をある種並行的に接続しフィクションの世界に現実の痕跡を残すことで、虚構が現実に侵食してくるような効果をもたらしている。
現実世界と背景で擬似的に接続された虚構世界は、その中に細部にまで忠実な風景やモノが描きこまれていることでこれを媒介として現実であると仮定させ(し)、結果的に相補関係でより強固な箱庭を完成させることに繋がる。そうなることで、劇中で描かれる「日常」は、綺麗過ぎて現実的でないストーリーだとしてもイメージとして共有しやすくなる。

また、日常系アニメと称される作品群の登場人物のほとんどが中高生というのも、この年代の共同体が学校・家族・地域という比較的狭いコミュニティに存在していることが、箱庭を成立させやすいという理由にあるからだろう。


実在の風景をモデルとした作品で広く知られているのはジブリ制作の『耳をすませば』だろう。劇中では、聖蹟桜ヶ丘駅多摩ニュータウン近辺の風景が描かれている。
日常系アニメの箱庭とは異なるだろうが、この作品も背景で現実と虚構を接続し、そこにいるキャラクターを丁寧に描写することで物語に真実味・説得力を持たせている。その証左がテレビ放送後に、ネット上である種ネタ的に巻き起こる阿鼻叫喚の声だ。
現実の風景が輸入された世界の中で希望を持ち生き生きとしたキャラクターが送る「日常」の姿は、本当のことのように錯覚させる力を持ち作品的強度を高めているが、その強さゆえ物語自体が現実世界に侵食し、「私」的目線を導入に徹し見る者にとっては、そのあまりに綺麗な世界に自分の現実が否定されたような感覚に陥ることがある。


このように、虚構の世界観を作り上げるために現実の風景を輸入することはイメージの強化と作品世界に説得力を与える反面、外部との接続や「私」的目線が持ち込まれてしまうと、その説得力の強さゆえ現実を否定するような力を持つ。このままでは日常系アニメと呼ばれる作品とは相性が良くない。そこで「私」的目線の見方が出来ないよう物語を排除し、虚構世界の説得力だけを利用したのが『らき☆すた』だったのだろう。視聴者は「ありそう」な日常のイメージを、私を捨てた観察者に徹することによって受容することができた。

日常系アニメの箱庭に物語を持ち込むには

「私」的目線の導入を許さない箱庭の中で起こる日常に物語は必要とされていない。クライマックスとして訪れる話の盛り上がりはあるが、それが物語と同義とは言えるかは疑問だ。完璧な箱庭であるがゆえ、外部からの侵入やキャラが外に飛び出すようなことが起こりにくい日常系アニメに物語を発生させるにはどうすればいいのか。『みなみけ』シリーズを例に見てみよう。
みなみけ』(1期:無印)と『みなみけ〜おかわり〜』(2期:おかわり)は連続して放送された続編ものではあるが、監督や制作会社が異なる変則的な形でシリーズ化された。『無印』の方は、作品の冒頭でも語られるように「南家三姉妹の平凡な日常を淡々と描く」日常系アニメの王道のような作品だ。物語は存在せず、キャラの関係性や安心に担保された箱庭の中の出来事を観察した人が多いだろう。続く『おかわり』では、無印で構築された箱庭の中にフユキという外界からの異物を投入、加えて長女 春香が留学するかもしれないという、「箱庭内部のかき回し」と「キャラが外界に出る」ことによる日常の非日常への変化という二つの側面から物語を発生させよう試みられた。結果的に、フユキはまた外の世界へ、春香の留学も無くなり平常運転の日常に戻ることで話を終えるわけだが、作品自体の評判はあまりよくなかった。その後制作された3期『みなみけ〜おかえり〜』では、「平凡な日常を淡々と描く」無印に近いスタイルに戻ることになる。が、この一度構築された箱庭の崩壊を予感させることは、それ自体が物語の発生装置として機能する可能性は十分にあるだろう。


けいおん!!』でも、この箱庭の揺さぶりで物語を発生させる試みが行われている。それは卒業により箱庭が壊れるかもしれない、キャラが外へ飛び出していってしまうかもしれないという予感に基づくものだ。しかし、これらも視聴者の目線が観察に徹するものであれば、ただ箱庭が拡大されるだけでインパクトを持たない。そこで『けいおん!!』では、1期『けいおん!』で作られた箱庭を手前に転がすことで「私」的目線の導入を一部では許容することで物語の生成を図った。





観察者的目線は作品を上部からの俯瞰、「私」的目線の導入は、その世界が現実のものと擬似的に錯覚させる平行的な目線だ。この二つの目線の方向性は、作品によって変化するのもではない。
先に例を挙げた『耳をすませば』は、箱庭的ではないから開口部が広く観察者としても「私」としても視聴することができる。【図1】

日常系アニメでは、現実との比較で欝要素をもたらすような「私」的目線の方向は不必要なので封鎖されており、視聴者は「可愛い」だとか「萌え」のような快楽の提供される上部の開口から内部を観察する。風景は箱庭内の完成度を高める為に利用されている。1期の『けいおん!』はここに属する。【図2】

これを手前にパタリと倒したのが、【図3】の「けいおん!!」的箱庭だ。観察者的目線から見えないことはないが、それだとあまり面白くないので、より快楽の多い開口部である「私」的目線の方向に移動する必要がある。しかし、その方向にあるのは視聴者からすれば現実との比較という持ち込みたくないもの、制作者にとっても日常系アニメからその目線は排除したいもののはずだ。つまりこの目線は双方にとって変質させる必要がある。それが図にも示した「キャラに憑依した目線」、言葉を変えれば「キャラを知っている「私」の目線」だ。これは現実世界との比較や差異を指摘をする「私」的目線とは異なり、あくまで箱庭の世界観に準拠した目線だ。これは観察者的目線が変化した目線で、快楽もこの目線に対し多く提供される。
これで、既にこの方向にある「私」的目線が完全に排除できるかといえば当然そんなことは無く、倒されているとはいえ強固な箱庭であることも本質的には変わりはない。そこで既にその方向に存在した邪魔と思われる「私」的目線は、箱庭に揺さぶりをかける存在として利用される。『おかわり』でいうところのフユキの存在を視聴者に仮託させるのだ。箱庭崩壊の予兆は物語の発生装置であるから、視聴者は謂わば自分が作り出した物語をマッチポンプのように増殖させることになる。
この倒された箱庭に基づく二つの目線の導入は『けいおん!!』が2期目の作品であったから可能なことだろう。どのようにして箱庭を倒したかは、1期と2期の差異を確認することで発見できる。

拡大された箱庭とキャラの人間宣言

ご存知のように『けいおん!!』は人気作の続編である。1期では、唯のマイペースっぷり(入部以前やテストでの赤点、ライブ前の風邪)、遊びたい派の唯・律・紬 vs 澪・梓(合宿や新勧関連)、律と澪の関係(幼馴染→喧嘩?)のように、それぞれのキャラクター性や関係性に基づく挿話が多い。つまり、2期で視聴者はそれらをよく理解した状態で作品を見ることになる。

内外の評価から強固に確立されたキャラクター性とそれぞれの関係性というのは、箱庭で描かれる日常に不可欠なものだ。○○は何キャラ、ここで○○が出てきたらこういうオチになる、みたいに即座に理解できるテンプレ化されたキャラクター性が求められている。
日常系アニメと呼ばれる作品に「物語」が存在しないものが多いのは、それが変化を生むものだからだろう。だからそこに描かれるストーリーは仲直りしただとか、成長により内部的な承認を受けたのように、あくまで小さな共同体の中での関係性を強化することにおいて発生する。1期ラストの文化祭ライブは、唯の小さな成長と5人の関係性の強化(輪になり内に向き合って演奏する内部的承認)の確認をクライマックスに用意し話を終える。最後は観客に向かい演奏するが、そこにいるのは始めから「がんばれ〜」と見守ってくれる人たちで絶対的な外界とは言いがたく、それがそのまま外部的承認を得たことに繋がるかは疑問だ。「観客にも認められる私たち5人の絆って凄い」を確認するため、つまり内部的承認をより強く確認するために箱庭の範囲が少し拡げられたとするほうが良いように思える。
何にせよここで軽音部から講堂、学校に範囲を拡げられた箱庭は2期でもそのまま維持され、その中で話が展開されることになる。だからこそ2期からは純やクラスメイトが舞台に登場することが出来、お茶会やマラソン大会、部室騒動などで見られる「学校内での軽音部の存在」のような挿話が描くことが出来た。20話の学園祭ライブも、拡がった箱庭の内々での出来事であるわけだから内輪向け感満載なのは当然のことだろう。結果的に一番外部に開かれていたライブは、梓が入部を決意した新勧ライブということになるだろう。


拡大されたとはいえ、箱庭であることは変わりなくこれで外界と接続された状態になったとは言えない。【図1】のように視聴者が観察者に徹するのであれば、例えば卒業のような関係性の変化を生みそうな出来事であっても箱庭崩壊への揺さぶりをかける存在にはならず、ただ箱庭の範囲が拡大されるだけのエピソードになってしまいそこに物語は発生しにくい。
箱庭を倒すためにまず行われるのが、「キャラの人間宣言」だ。1期でそれぞれのキャラのキャラクター性は視聴者によって確立されている。観察アニメにしたいのであれば、そのキャラクター性をより強調する、例えば唯と律をよりダメに、澪と梓をよりしっかりものに、紬をよりお嬢様に描くことでそれが可能になるだろう。
しかし、キャラクター性を強めるとフィクショナルな出来事であることも同時に強調され、視聴者は観察者の目線から降りてこない。そこで、『けいおん!!』では2期であるという特徴を利用し、1期では見られなかった部分を、つまりキャラの「多面性」を描くことでテンプレ化を防ぎ、より人間「らしく」みせようという試みがなされている。これが以前 普通の女の子に戻りたい! 「けいおん!!」における『キャラクター性の放棄』その繊細な方法 で触れた部分だ。
5話が放送された時点の記事であるが、その後も例えば律のボタン付けや料理、澪の夏フェスでのはしゃぎっぷりや、勉強中での「私もムギと遊びたかったのに」発言、1期では描かれなかった梓の同級生内での立ち位置など、既に認められている部分を深化させるだけでなく別の部分もあわせて見せることで、キャラをより多様性を持つ人間に近いものとして描こうとしているのが分かる。これは決して1期で造形されたキャラクター性を否定することではなく(例えば澪は相変わらず恥ずかしがり屋だ)、既知の部分だけを徹底して話を描くことはしないということだ。それは既知であるが故、出発点のようなものに置き換えられる。このテンプレから多様性への変化の過程を視聴者がキャラクターの成長だと感じるのであれば、そこに物語が自動的に生成される。キャラクターを理解していれば、紬が唯や律のボケを理解しツッコむ(俗世間を理解する)だけで、唯に到っては朝早起きできただけでもそれが立派な成長とみれるのだ。物語は作品内部に存在するのでなく、それを見た外部に作らせる。
キャラクター造形の多様化と、そこから感じられる成長という物語が「キャラの人間宣言」で得られる効用だ。ただ、この効果を最大化させる為には【図3】で言う所の「私」的目線の先にある「キャラに憑依した目線」を獲得させる必要がある。これには、視聴者が各キャラを理解していること、キャラが身体性を持っていることに加えて、視聴者をこの箱庭の世界に引きずり込む必要がある。それが出来て初めて箱庭が横に倒されたということが出来るだろう。
参考:『けいおん!!』目線の意識と演技する画面

箱庭に招待する演出

視聴者を箱庭に招待するために最も重要になるのが画面作りだろう。文字通り画面に視線を惹き付ける必要がある。そこに背景や動作の細部に到るまでこだわって描くことを選択し実際にそう出来れば虚構が現実に侵食しているような効果をもたらすことは、『耳をすませば』を例に見た。実際『けいおん!!』でも、「俺にはこんな青春無かった」「これ見て泣いたやつはリア充」のようにフィクションでありながら、あたかもそれが現実の延長線上にあるかのような感想が散見された。このような意見が出てくる時点で箱庭の横倒しは思惑通り達成されていると考えられるが、これを可能にしたのはやはり演出家とアニメーターの功績が大きい。
ここでは敢えて『けいおん!!』ではなく、『涼宮ハルヒの憂鬱』から「涼宮ハルヒの溜息」、そして1期である『けいおん!』での画面作りを参照にしたい。というのも、視聴者は『ハルヒ』であればキョンに「私」を重ね合わせ、そこから世界を見、『けいおん!』では観察者目線で作品を見ることが多い。『けいおん!!』ではこれらのハイブリットな目線が必要になるわけだから、『ハルヒ』と『けいおん!』を参照し京都アニメーションが行う画面への招待の方法を見るのは無駄ではないだろう。
今回は高雄統子氏、石立太一氏、そして山田尚子氏の三人に焦点を当てる。
gifは白画面がスタート。

高雄統子

まず高雄さんのカットの特徴にあるのが、カットを動作で繋ぐこと。





画面が変わるキョンが来る、画面が変わるキョンがくる(左)、話す人→話す人→違う人(中)、ハルヒが動くから画面が変わる古泉が話すからキョンが向くキョンが向くから画面が変わる(右)のように、場面毎に動作が連続し次の展開に繋げるカットが多い。画面が変わることに必然性を持たせられるだろう。





画面の下から出てきたりもする。指差した所に澪が居たりもする。

このようなつなぎをすることで、カメラに描かれた範囲にしか世界がないのではなく、ある世界の一部をカメラで切り取ったような印象も生まれ世界の範囲が拡がる、すなわち現実世界と似たような感じに拡大する。


他に特徴的なのが、光度を変化させる演出。影を見せるために光を利用するような画面作りだ。



この光の使い方がフィクションであることを担保しているが、効果的に挿入されてくるので画面にイヤでも集中させられる。

石立太一

続いて石立さん。彼の画面はモノとか後頭部、人物の後姿とかをなめる。




画面空間に奥行きが生まれるのはもちろんの事、キャラが背を向けたり全体像を見せず見切れ状態にすることでカメラの意識的概念から脱却し、画面をモニターの外に延長、すなわち虚構を現実に侵食させるような効果を生む。カメラで撮られた映像を見ているというよりも、まるで自分がその場で見ているように画面に視聴者を招待している。
画面にも勿論意味があって、例えば中段右の二つは、金持ちと庶民ネタのオチ、練習したい人としたくない人。下段は新入部員と迎える人のようになっている。

このナメの画は会話においても用いられる。下にあるのは個人的な会話、親密な会話の例。これらは非常に狭い範囲での会話なわけだが、その後に引いた画面を挿し込む。私の世界の外には広い世界がある事実が提示されるということだ。キャラの範囲にしか世界がないのではなく、あくまでキャラは世界の一部に過ぎないということを意識させることで、箱庭世界が広く延長的であるかのように錯覚させる。(↓3つで1セット)



引きの画面は何もこうした場面に限定されるわけではない。



何か事が起きる、もしくはその前→引く、引いた画面は生垣だ建物だ人だをなめるている。これも同じくキャラは広い世界の部分的な存在で、起こった出来事は世界の一部の出来事にしかすぎないということが意識される。
キャラクターアニメには、ある種可愛くてなんぼ顔が見えてなんぼの部分があるし、一般的にはカメラには背を向けないとか横切らないという意識があるだろう。石立さんの場合はこうした概念を平気で裏切る。



下に到っては、かぶっちゃって紬が見えない。
石立さんも光を使うのが好き。感覚としては高雄さんとは逆で、光を見せるために影を利用している感じ。石立回では風呂も眼鏡も光る。



加えて、石立さんが担当する回のキャラクターは、虫のように光の方に寄って来る。光がそのまま「正」を表すかのように光に憧れている。





(左)澪にとって練習のできるハウススタジオは憧れだから光って見えるが、紬には外で遊ぶほうがいい。他の3人は光のある方へ駆け出し、澪は暗いスタジオに残されるが結局は光を求め自分も外へ行く。
(中)色々と不満の残る澪も、結局は光に魅了される。仕掛け人の律と紬まで見とれちゃう。この後、光ってる風呂に4人で入る。
(右)退部しようかと悩む梓は右の方で光っている唯たちの姿を見てここでやっていこうと決める。

このように、侵食してくる画面と光の魅了で画面に力を与える。

山田尚子

最後に山田さん。彼女は視線を描く。




上は映画を作ると言い出すハルヒが会議を開く場面。
話している人の方を見、その人が視線が変わればそちらを見る。誰か違う人が話し始めれば、そちらを見るという視線の流れは、我々が普段から特に意識もせず当たり前に行っていることである。この流れはパートを挟んで約10分にも渡って描かれるこのシーンであっても、飽きることなく自然に受け入れられるだけでなく、視聴者を画面の外から見ている人ではなく、6人目のSOS団異世界人?)としてその場に居るような感覚にさせ話に引きずり込むというような利点も生まれている。


これとは逆に、視線の交わらない場面は不安を引き起こす。




入部を断りに来た場面での唯は視線を合わすことが出来ず、後ろめたさを感じさせる(左)。なんとか引きとめようとする3人は視線で会話する。唯もその目線の内に入れられ(右)、この後演奏を「見る」ことで再び入部を決意する。


けいおん!』の13話では、唯以外の4人が個別の懸案事項を抱えている状態なので視線が唯を経由しないと交わらない(左)。特に律の場合は、澪の書いた歌詞を見知らぬ人からのラブレターと勘違いしているので、この二人の視線が交わらず誤解がどんどん大きくなる(右)。




その後、律は弟と別れ一人、澪は一人で歌詞を書きに海へ、紬はバイト、梓は家で猫の世話とフラットな視線を交すことのできる人がいない場所にいる。これを回復させたのが、唯からのメールだ。ケータイの画面を通し視線の交錯が擬似的に回復された状態になる。



その後、紬の働くファーストフード店に集まり、実際に視線が回復することで律の誤解も解けいつもの日常に戻る。



さらにこの後、部室で手が冷たい温かいみたいな話が起こり皆で手を取り合う身体性による回復も図られている。
つまり彼女が担当する回、作品では視線がフラットに繋がる関係=仲間というお決まりみたいなものがある。フラットというのが重要で、唯の入部経緯の件では、「断りに来た唯」と「カモを逃がさんとする3人」は、唯は3人を上に、3人は唯を下に見えているから事が上手く進まない。最終的に演奏する姿を見せ、正当評価を促すことで万事解決する。
梓の件でも、勧誘している4人は着ぐるみだから直接は目が合わず、その後も軽蔑の目で見たり、音楽室を上に見たりでフラットにはならない。逃げるようにしていたところで憂とようやく視線を結び、講堂に赴く。演奏を見るときは、ステージ上の4人を背伸びしてみる=羨望の眼差しなので入部後もごたごたが起こり、部室においてフラットな状態で再び演奏を見せる(石立回なので光もある)ことで、ようやく仲間入りできるという感じだ。
なので、先ほど書いたライブにおける箱庭の拡大というのは、それぞれのステージの高さを調節し視線を結ぶことの出来る人物を増やす儀式みたいなもので、その結果、作品に干渉できる人物が増えていくような具合になっている。回を重ねるごとに同じ高さのところにいる人間が増えるわけなので、ライブはどんどん内輪向きになっていく。ということを考えると、澪に憧れているものの軽音部はちょっと下に見ている純の存在は決定的な他者ということになるわけだが、梓や憂を通し徐々に懐柔されていき非常にあやふやな存在にされる。澪ファンクラブも同じで、ただ好きならフラットなものの、それが憧れだけなら違う高さの人間だ。これもお茶会で原液のポエムを聞かせることで、ある種政治的に同ステージ上に無理やり落とし込まれる。


次にキャラの身体性について。彼女がキャラに身体性を与えるためによく使うのが「脚」だ。



彼女のコンテ回で脚が描かれることが非常(異様)に多いことがお分かりいただけるだろう。
ハルヒ』や『けいおん!』のような等身が比較的人間に近いデザインの作品で脚を描くと、文字通りの意味で地に足が着いたような印象が生まれ、キャラクターに身体性が芽生え始める(を印象付ける)。


今回は3人の紹介にとどめるが、これだけでもフィクションの世界が平面ではなく空間であること、キャラクターが世界の一部であること、その世界で実際に生きているような身体性を描き出すことで、虚構が現実に侵食してくるような画面作りを京都アニメーションの演出家陣がしていることがわかるだろう。


ちょっと話を変えて… 紬・唯・梓の軽音部入部の経緯にも面白い演出が見られる。



これら魚眼レンズの効果がかかった画は、左から紬・唯・梓が入部する前後に登場する。ここから、この3人が軽音部をどう捉えているかを知るが出来そうだ。
紬であれば、効果がかかるのは律と澪に対して。つまり彼女は、「友達」や普通であることへの憧れが入部への決意となり、それが大切だと考える。
唯は音楽室の看板。この前のアバンで学校の校門でもこの効果がかけられているので、唯は高校や音楽室といった場所、「5人が一緒に居られる空間」が大切なものなのだろう。
梓は上級生4人に。4人の演奏に惹かれ入部を決意した梓は、その中で「一緒」に演奏できることを大切に思う。
律が創部のきっかけとなり親友の澪と共に礎を作った軽音部は、それぞれ別の思いを含んだものとなる。だからこそ律と澪が喧嘩した際には、その土台ごと崩壊してしまうような危機感があったが、彼女たち二人が繋がり続けるなら軽音部もといHTTの継続性は担保されることになるだろう。梓にとって大切な「一緒」が卒業によって崩れてしまうかと予感されたのが2期の展開なのだろう。

「私」はどこ?主人公は誰か

かくして箱庭への招待しキャラの身体性を付与した『けいおん!!』だが、ストーリーは観察者の目線で見ると大して面白くない。そこで視聴者は目線を移動することになる。すると、作品に「私」を持ち込むか、それともだれかに仮託させるか選択する必要が生じてくる。
しかし、キャラクターたちは内面のようなものは外から見ることができない。そこに見出せるのは型だけだ。そこで施されたのが「キャラの人間宣言」なのだが、いわばこれは1期では色だけ決まっていた風船に、2期で模様を書き込むことで視聴者がそれを膨らませたくなるように、つまり存在しない内面を勝手に吹き込ませる余地を発生させる効果を期待されてのことなのだと思われる。
このようにして、「私」的目線では「こんなのねぇだろ」と思い、移動した観察者の目線では現実世界に延長された箱庭が卒業によって壊れるのではないかと、自己発電的に楽園の崩壊を予知する。それに加えて、自分で膨らませた風船(ダッチワイフと言い換えてもいい)の膨らみに物語を勝手に見出すということが可能になって、ようやく倒された箱庭が形作られることになる。


主人公が誰なのかも曖昧で、HTTの5人及び周囲の人間を含んだ音楽室や学校という空間こそが主人公のような扱いになるのも、作品的な主人公を唯、物語的主人公を梓に持たせた後に、例えば、成長的主人公を紬や澪、それぞれの調整役としての律、保護者的役回りの憂・和・さわ子、内部の比較対象としての周囲と仮に設定され、それ役割が挿話もっと言えばカット単位で順次入れ替わっているからだろう。これを可能にしたのも、視聴者がキャラの特徴を知っている前提の下に行われるキャラクター性の多面化だ。

このようにして視聴者は「キャラに憑依した目線」を獲得し、自分で膨らませたキャラの内面を工作し、自家栽培した物語を箱庭の外側から持ち込んでいく。つまり物語は外部に委託された状態にある。
この時求められているのは、あくまで「キャラに憑依した目線」であって、世間一般の社会常識や「私」の自己を持ち込む「私」的目線は邪魔者以外の何者でもないのだろう。「4人一緒の大学とかないよな」と思いつつ「しかし、あの決断は澪にとって……」のように存在しない内面を膨らませることで、物語を個人輸入(出)するしかない。

卒業へのタイムリミットを機に発する「あずにゃん問題」については、『おかわり』でいうところの春香の留学を卒業に、フユキの存在を視聴者に託し箱庭を内から掻き回せる。自分で掻き回しているのだからフユキのような嫌われ者は存在しないが、その役目を誰かに擦り付けたくあれば、例えば唯の鈍感さの部分などに分配的に振り分けることになるのだろう。
「『けいおん!!』が終わってしまって悲しいファン」と「三年生が卒業して一人になってしまうかもしれない梓」というのは、なるほどよく似ている。だからこそ、それが箱庭崩壊への序章に繋がっているかのように見えることもあるが、その目線は揺さぶりにおいてのみ有効で、「自分は作品が終わって不幸だと思っているから、梓も不幸でなければならない」というのは作品に反映することが出来ない部分なので、「あずにゃん問題」とは全く論拠を異にする別物だろう。
参考:「あずにゃん問題」は起こってるけど、起こってない。

けいおん!!』には「私」の居場所はなく、ただ空気入れと化した存在が必要とされている。

最終回

で、最終回。これにルールに則った上で物語を輸出しよう。


『絆創膏』と『タイツの穴』
「卒業をお祝いしたい気持ち」と「卒業して欲しくない思い」が交錯し心ここにあらずの梓は、壁にぶつかりおでこに怪我をする。風に前髪が舞い上がり、『絆創膏』(本音=卒業して欲しくない)が露呈するのを必死に隠す。
一方の唯も、朝からギターの練習をして遅刻寸前で学校に来る。練習していたのは勿論梓に贈る歌だろう。憂がエスパーして和が預かった新しいタイツに履き替えたので、梓だけがこの『タイツの穴』の存在を知らない。互いの心の内を隠しているような状態。




視線のルール
教室で憂の本音を「同じ視線の高さ」で聞いた梓は、4人をお祝いしようと決め音楽室に向かう。



和と唯
「一緒に帰ろうね」の後に和と唯が交す謎のサイン。小中学生の頃、仲間内にだけ伝わるオリジナル手話を作って授業中に会話した経験がある人も多いだろう。それが高校生になった今でも伝わる二人の関係が、これからもずっと続くことを予感させる。



『絆創膏』と『写真』
本音がこぼれる時に絆創膏は剥がれ落ちる。梓に「貼られる」のは唯から貰った絆創膏。唯たちの上に梓を「貼った」写真、押し花にされた桜の花びらを添えて。
憂と和にタイツを届けてもらった唯が、梓に絆創膏をあげてる意味は大きい。





カップに写りこんだ4つの光
梓への演奏の前に映る唯のカップには、4つの光が映りこんでいる。4が何を意味するかは言わずもがな。



演奏する4人は梓をガン見、梓も下を向かずその姿を真っ直ぐに見つめる。フラットな視線の交錯は仲間の証。
音楽室に入ってきた さわ子と和を5人が見つめる画。
あれ…?視聴者ってさわ子だったの?ラストがこの目線で終わるということは、この作品が本質的にその目線に支えられていたという事を明示しているだろう(『目線の意識とー』で触れた思い出の元ネタの部分)。その後、音楽室の扉→廊下→校舎とカメラが遠ざかる。彼女たちが外に出るのではなく、視聴者が外に出されることで「おしまい」。

おわりに

けいおん!!』は、一度完全な箱庭を作り、それをぱたりと手前に倒し限定的に外部性の導入を許容し、物語を外に委託することで作品の体裁を担保させた作品だろう。現実世界の風景をフィクションに輸入し快楽を輸出、そこから物語を再輸入するという貿易、もしくは快楽を提供する代わりに年貢として物語を徴収させるような形で日常系アニメに物語を発生させた。
このような手法が果たして掛け捨てなのか積み立てなのかは、今後に続く作品の登場を待たなければ分からない。

『世紀末オカルト学院』時をかける文明 -流星のブンメー君- "ノストラダムスの鍵"は「壊す」ことなく「守る」ことで未来を救う?

世紀末オカルト学院』を見ていると、マヤの脚や美風のおpp……ではなく、タイトルにもなっているオカルトに目が行き、文明のヘタレ具合も手伝って「タイムリープもの」という作品の特徴を忘れてしまいがちになる。
オカルト大好き少女だったものの、家庭を顧みず研究に没頭する父との離別に一種のトラウマ的感情を持っているマヤ。
世界を変えるために2012年の未来からやってきた文明も、スプーン曲げ少年と持て囃される一方でステージママである母との関係は複雑な様子。
マヤの幼馴染で彼女の影響でオカルトに興味を持った亜美と、マヤにかつてのような笑顔を取り戻してほしいと奔走する亜美の父、茂。自分が生まれるよりもずっと前の出来事に思いのありそうな美風、9話に登場したあかりと、「親子の関係」や「過去に思いを抱えている」キャラクターは非常に多い。
未来と現在、そして繰り返し描かれる過去への思い。そしてタイムリープから考えられる「時間」の絡みについて整理するのは無駄なことではないだろう。

  • 「マヤの未来」と「文明の過去」は変えられる

共に親との関係にトラウマを抱えるマヤと文明だが、これはマヤ(1999)と文明(2012)だから共有できるものだ。文明のトラウマは1999年のブンメー君が今後体験する出来事である。つまり、文明のトラウマはブンメー君を救うことで回避できる。マヤにしても、もう過去は変えることは出来ないが、2012年に彼女が生きている未来は作り出すことが出来るかもしれない。
つまり"ノストラダムスの鍵"は、「マヤの未来」と「文明の過去」を変えること、すなわち「マヤが生き、文明がトラウマを抱えていない2012年の世界」を作り出そうとすることで見つけられる可能性がある。作中の「星の王子様」や「幸せの青い鳥」のモチーフからも連想されるように、"鍵"はすぐ側に、そして見えるものではなく心の中にあるもの=文明のトラウマである可能性は否定できない。

テレビに映るかつての自分の姿を見た後に文明が、「あの頃は良かったなぁ。ホント帰りたいよ……、って帰ってんじゃん!」と言っていることから、1999年7月にはまだトラウマを抱えていない。心に傷を負ったのは、臨死体験で見えた走馬灯つまり、友達と「しし座流星群」を見れなかったことと、その代わりにプラネタリウムに行く約束をした日に仕事を入れられ、平手打ちまで喰らったことが原因になっていると考えられる。
しし座流星群」は毎年11月に観測出来る流星群だ。つまり、文明がトラウマを抱えることになった出来事は、1999年11月頃と考えられる。空から大魔王が降りてくるのは7の月だから、この時点でオカルト学院周囲半径50kmは焦土と化している。

大体この範囲


7の月に大魔王が降りてきて長野県を中心に壊滅的な被害を受けていながらも、文明たち(テレビ局に車で移動しているから恐らく東京近郊に住んでいる人たち)は11月の時点でも、学校に通うなど特別変わらない生活を送っていることになる。また、2012年には滅亡に瀕する人類ではあるが、有効な対策手段を持たないながらも13年は持ちこたえていることから、空から降ってきた宇宙人が即侵攻を開始したというよりは、別の形で地球に到達し徐々にその勢力を強めていったと予測される。
生命誕生の起源に、「生命の起源は他天体で発生した微生物の芽胞が隕石などによって到達したものである」とする「パンスペルミア説」という仮説があり、そこからある種の外部的な陰謀論を導き出す「シードマスター説」というものが存在する。
侵攻してきた宇宙人が隕石に付着した芽胞のような形で地球にやってきたものと考えれば、皆神山の焦土化は隕石の落下によるものと報道され、「落下点にはオカルト学院と呼ばれる怪しい学校があったらしい」というそれこそオカルト的なニュースになり、騒ぎがそれほど大きくなっていなくても不自然とはいえない。

これらを踏まえた上で、"ノストラダムスの鍵"についてもう一度考えてみよう。
未来からやってきた文明は、変革を引き起こす"鍵"を発見し破壊することが目的だ。「鍵」で「破壊」だからモノであると信じ込んでいる。が、果たしてそれは正しいだろうか。考えても見て欲しい。未来から送り込まれる文明の姿は当初、力を請われスカウトされた世界の救世主のように回想されていた。しかしその実情は、イカサマで金を稼ごうとしている所を強引に連行され、無理やり過去に送り込まれたというものだった。そう、未来の人間が言っていることが必ずしも正しいとは言い切れないのだ。考えが正しくないからこそ、あんな未来の惨状を生み出しているともいえる。
つまり、大王の侵攻を防ぐ(未来を変える)ことは、何かを「壊す」のではなく、逆に「守る」ことで成し遂げられるという可能性は否定できない。何かを壊したことで、変わってしまった未来こそ「壊す」べきものだということだ。
そして今まさに壊されそうになっているものがある。それが「学長の家」だ。学院の敷地内にあるとも、また別の場所にあるとも考えられるが*1、日本のピラミッド皆神山にそびえるヴァルトシュタイン学院の全体像は、その形が何か結界を張っているようにも見える。いずれは小学校〜大学までを併設する総合学院となることを目指していることや、「この辺りはまだ使われていない教室」という亜美の言葉から、その校舎は既に完成しているようにも考えられ、学長の家の場所もまた何らかの意味合いを含んでいる可能性は十分あるように思える。



マヤの父、前学長の神代純一郎が残した手帳には、ノストラダムスの予言を阻止する「『鍵』となるものを見つけ破壊することで予言を阻止できることをつきとめた。だがいま、私の連中を好ましく思わない連中が、私の命を狙っている。」と記されていた。"鍵"を追うことで、それをよく思わない反対勢力に殺されてしまったようだ。"鍵"自体が何であるのか特定できたかは不明だが、いくつか施した対抗手段のひとつが学院を中心とした大結界で、それが宇宙人の侵攻を阻止していた可能性は否定できない。"鍵"の確信に迫っていたからではなく、学長、特にその家が妨げになっていたので先遣隊もしくは現地部隊(教頭たち)によって殺害された。その後、主が不在になった家を取り壊し結界を崩壊させ本格的に侵攻するという感じに。
マヤと文明は"鍵"を探し出し破壊するというよりも、上条さんよろしく「宇宙人に侵攻される未来ってんなら、そのふざけた幻想をぶち殺す!」という考えで行動すれば事態は好転するかもしれない。つまり、これからでも防げる身近な変化が自分の未来に与える影響、学院を廃校に導こうと画策し父の家も取り壊そうとして死んでしまっているマヤと、母親関連でトラウマを抱えスプーン曲げ(サイコキネシス)の力も失った文明の同じ2012年の未来は、今何かを「変える(壊す)」ことより、「変えない(守る)」ことによって変えられるかもしれないのだ。

「学長の家を壊さないこと」と「ブンメー君にトラウマを負わせないこと」は、共に2012年の未来にはないことで、1999年の段階で回避可能な出来事だ。これらは、マヤにとっては過去の父との関係修復を、文明にとっては未来での母との良好な関係の継続を意味する。この二つが密接に、そして同時的に"ノストラダムスの鍵"と関わってくることになると面白い。


ここまで仮説。そしてここからも仮説。

  • 変えないことで変えられる未来の可能性

文明のサイコキネシスの力は、友達と遊べない・母親にぶたれるという原因にもなった「流星群」により失われた可能性がある。力を失ったブンメー君は、これまでチヤホヤされてきたのが一変、相手にもされないようになり文明のような落ちこぼれになっていったと考えられる。つまり、ブンメー君を救うには、「見世物にされない」と「流星群を見る」未来を作ることで回避できる。
「見世物にされない」為には、うってつけの場所がある。オカルト学院だ。ここならば、その力に正当な評価をくだせる環境があり、力を失うこともなく、より強大なものに出来るかもしれない。文明は1999年に来る直前の2012年においてオカルト学院の存在を知らない。つまり、ブンメー君もその存在を知らないことになる。ならば、その存在をブンメー君に知らせてあげればいい。「あの頃はよかった」と回顧する文明自身が、もしくは同じようなトラウマを抱えている文明に同情したマヤが入学案内をブンメー君に送るというのは不自然なことではないし、「ふみあきちゃん可愛い」と言う美風が商店街の催しで松代に招待することだってあるかもしれない。「見世物にされない」未来はオカルト学院の存在を知ることで実現できる未来だ。
もう一つ叶えなければならないのが「流星群を見る」未来だ。大王が来るのが7月21日、「しし座流星群」は11月中旬。大王の到来や、それに関連した民衆のオカルト的関心の変化でブンメー君が落ちこぼれたのかとも思ったが、到来後の11月でもブンメー君はイベントに呼ばれているので、その力も人気も失っていないと考えられる。大王が来るのを阻止した後の11月に、ブンメー君に「しし座流星群」を見せる機会を作ることができれば解決できそうだが、これだと何とも気の抜ける展開だ。何よりブンメー君の人気は続いているのだから、これを実現できる可能性は低い。
ブンメー君に「流星群を見る」未来を用意するのは難しいように思える。が、流星群は一つだけじゃない。7月にはペルセウス座流星群がある。ペルセウス座流星群は7月20日ごろ〜8月20日ごろにかけて出現する。大王の降臨が7月21日だから、暦上での時期は合致する。
つまり、大王降臨の前日、7月20日にブンメー君をオカルト学院に招待することができれば、「見世物にされない」と「流星群を見る」未来を同時に叶えられることになる。ここでブンメー君が"ノストラダムスの鍵"を壊すのに一役買えばいい。



一方、マヤの変えられる未来である学長の家の取り壊し問題。学院自体の形や学長の家が結界として機能している可能性は先にも挙げたが、結界でないにしても、その地中に宇宙人の侵攻を防ぐ力を持つオーパーツが埋められていて、このオーパーツが地球の技術では傷一つ付けられず、教頭が他天体から持ち込んだ道具(こちらも同様に地球の技術では壊せない)によってのみ破壊できるようなものだとしたら、それを『「壊す」ことが侵略された未来』『「守る」ことが平穏な未来』に繋がるという、意味の反転がおきる。
このオーパーツ、学長の家だけでなく他の場所にもあったほうが話は後々盛り上がる。
例えば、美風の食堂に置かれている何気ないものが、力を持つオーパーツのひとつだったらどうだろう。教頭がそれをむりやり取り上げ壊し、美風が文明に泣きつくことで事態が明るみになり始める。マヤと文明が事の真相に辿りついたとき、残る一つのオーパーツは学長の家の地中に埋まったものだったとしたら……。そして教頭が、「自分も学長の意思を継ぎ独自に探索をしていた。そのオーパーツこそ破壊すべき"ノストラダムスの鍵"だ」とうそぶいたら……。



7月20日。大王の降臨を明日に控えながらも"ノストラダムスの鍵"の手がかりを一向につかめないマヤと文明。
父が学長の家の解体工事を請け負うことを聞いた亜美は、まだ間に合うから考え直してもいいのではないかと問いかけるが、"鍵"のことで頭がいっぱいのマヤから返ってくるのは気の抜けた返事だけだ。


あろうことかこんな日に、ブンメー君が松代にやってくる。


懐かしい母の車を偶然見かけた文明は、過去にこの街に来たことはなかったはずなのにと感じながらも後を追い、ブンメー君を遠くから見つめ、幸福な頃の自分と母親を写真に収めようと、おもむろにカメラのシャッターを切る。そこに映し出されたのは、2012年からやってきた今の自分と同じ姿。同じスーツを着て誰かと歩いているようだ。「今の自分が13年後の自分の姿なんだから当たり前か」と気にも留めない文明だが、写真には一つだけ違う点があった。一緒に歩いているのは母親ではなくマヤの姿だったのだ。
そんな時美風から、教頭が食堂にやってきて大切にしていた置物を壊していったと相談される文明。美風が言うに教頭は「地球を救うため」だとか「災悪をもたらす」「学長の家にあるのが最後の一つ」と意味不明なことを口にしていたようだった。事の次第を察したマヤと文明はすぐに解体工事中の学長の家に向かう。
工事をするのは亜美の父親である茂。それを手伝うのはスマイルとJK。マヤは亜美からの問いかけを無碍にしたことを悔やむ。しかし、亜美の父ならマヤの言葉にも耳を傾けてくれるだろう。JKがダウジングオーパーツの探し出す。「壊す」というイメージと教頭の嘘助言を信じ、そのオーパーツを壊すようスマイルに頼む文明。しかし、巨大なレンチで叩こうとドリルを向けようとオーパーツには傷一つつけることが出来ない。オーパーツを携帯で写真を撮ると、そこには壊れたオーパーツと荒れ果てた大地が映る。これはノストラダムスの鍵じゃない。
教頭に壊された美風のオーパーツの写真を撮るため、食堂に向かう。しかし食堂に美風は不在で店主がいるだけだった。文明が初めてこの食堂を訪れた時と同様、随分と待たされた後にようやく壊されたオーパーツを持ってくる店主。しかし、これもやはり"ノストラダムスの鍵"ではないようだ。戸惑うマヤと文明。そこに教頭がやってくる。
「昨日ここに来たときに落し物をした」と教頭。店主に言っても埒が明かないと、自分で探すと勝手に厨房へ入り込んでいってしまった。そんな時、店に客が訪れる。


松代にやってきたブンメー君と母親だ。商店街主催の催し物にゲストとして美風が呼んだらしい。ステージも終わり是非にと美風が食堂に連れてきたようだ。
未来の自分の姿を見られるわけにはいかない文明は慌てて机の下に隠れようとして梢とぶつかる。衝撃で眼鏡を落とした梢は「めがね〜。めがね〜。」といつものご様子。目の前にいるのがブンメー君だとは気付かなかったようだ。勝手に厨房に入られた店主はこれまでの様子が嘘のように激昂し、教頭は追い出されてしまった。戦々恐々と奥の様子を気にかけながら、「学長の家で見つかったオーパーツは自分が責任をもって処分するので自分に渡して欲しい」と言うが、そんな言葉を信じるマヤではない。
一方、連れてこられた店で何やら訳の分からぬ騒ぎが起きていて機嫌を損ねた様子のブンメー君だったが、美風が注文を取りに行くと、鼻の下を伸ばしすっかりご機嫌な様子で新作メニューのオムカレーを注文する。
机の下にいる文明は、先ほど撮った自分(ブンメー君)の写真の様子がおかしかったことに気付き、マヤに報告する。「ちゃんと映るってことはあんたが"ノストラダムスの鍵"だってことなの?」マヤの携帯で文明を撮っても、焦土に佇む文明の姿が写るだけだった。「あんたの携帯落として壊れたんじゃないの」とマヤに言われ落ち込む文明。


しばらくして、オムカレーがブンメー君のもとに運ばれる。こずえはようやく眼鏡をみつけブンメー君が店に来ていることに気付く。「お〜!天才スプーン曲げ少年ブンメー君じゃないですか。マヤさん携帯貸してください。写真撮ってもらいましょうよ。」ちゃんと名前を呼ばれず不機嫌そうな顔を浮かべるブンメー君だが、母に促され写真に収まる。そこに写ったのは、文明の姿だ。怪訝な表情を浮かべるマヤ。そのとき教頭の様子が急変し、「そのスプーンは私が落としたものだから今すぐ返せ」とブンメー君に迫る。このスプーンが宇宙人側の鍵らしい。食堂でいつも使っているものだと美風がたしなめても、教頭の耳には届かない。無理やり取り上げようと手を挙げた瞬間、それを遮り美風が言う、「そうだ。さっきは忙しくてステージを見られなかったから、そのスプーン曲げて見せてくれない?お願いふみあきちゃん」それを聞いた教頭は血眼を広げ「そいつをよこせ小僧」と、ブンメー君の手を掴む。万事休すかと思われたとき、


「曲げろ!ふみあき!!」


マヤの声が響く。「ふみあき」と呼んだ二人に曲げろと言われたブンメー君は教頭の手を振り払い、なんなりとスプーン状のオーパーツを曲げる。
食堂には教頭の阿鼻叫喚と、美風の歓声が響く。


上機嫌で店を出るブンメー君と母親。それを見送るのは美風。文明と、事情を知らない他のメンバーは今目にしたものが何だったのかさっぱり分からないという表情。
泣き崩れる教頭から何とか聞き取れた言葉から察するに、彼女は宇宙人による侵略を推進する過激派カルト集団の一員でただの人間ということらしかったが、その内情は詳しくは分からなかった。大声で呪文のようなものを泣き叫びながらどこかに走り去ってしまったからだ。オカルトって怖い。


店を出ると空はすっかり暗くなり、満点の星空をたたえていた。
子刻を迎え、恐怖の大王が地球に降り立つ7月21日が今日になる。「この時代の俺自身が"ノストラダムスの鍵"だったってことか……。でも、本当にこれで未来は変わったのか」何もしていない文明は自信がない。「何か写真を撮ってみれば分かるんじゃない」亡き父が自分を守ってくれていたことを知ったマヤは、全てを悟った表情で斜面に寝そべったマヤが言う。
文明が撮った画面には、今と変わらない松代の豊かな自然と星空が映し出された。歓喜の表情を浮かべ画面を見る文明に、マヤは呆れた視線を向ける。そのとき後ろからこずえの声が聞こえる。
「ウホホー、見てくださいマヤさん。流れ星ですよ!」


ブンメー君も帰路の車中で同じ星空を見ている。彼の手に握られているのは、オカルト学院中等部の入学案内。


書いてるうちにノリノリになってしまったので長くなっちゃった。てへぺろ(・ω<)
学長の家そのものが"鍵"だとしたら、「地球の未来」と「父との思い出(過去)」を失うわけにはいかないと感じたマヤが、教頭の乗ったブルドーザーの前に立ちはだかるような熱い展開も考えられる。
マヤと文明二人の「変えないことで未来を変える」要素はだいたい話に絡め、これまでの伏線っぽいものも一応は回収できると思う。このとき見た流星群はペルセウス座流星群と考えてもいいし、シードマスター説のように隕石の形でやってきた恐怖の大王(宇宙人)が、侵攻かなわず星屑と化したと考えるのもいいだろう。
もし、学校付近でオカルト現象が起こるのが、学長の遺した家や結界、オーパーツによるものだとしたら、マヤにとってそれを残すことは父を受け入れることになる。
この後、臨死体験装置なりを改造して文明が未来に戻るエピソードを挟むなら、曲げられたスプーン状のオーパーツが特別な力を持つということにも出来る。
未来を変えたということは、文明を過去に送り込んだ組織もあのような形では存在しないことになるだろう。変わった未来で組織のメンバーは一体何をしているのか。それがムー編集部なら最高にクール。スーパーテクノロジーを駆使し文明を過去に送り込んだ組織のメンバーの正体は、宇宙人に侵略された未来で秘密裏に活動していたムー編集部員たちだったのだ!な、なんだってぇ?


アニメノチカラ枠で放送された「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」「閃光のナイトレイド」のことを考えると、この後にCパート的要素が入ることは十分考えられる。描くなら平和な2012年の姿になるだろう。
この作品はパラレルワールドではなく、現在と未来の関係は地続きの関係だ。つまり平和になった2012年の未来から、文明は一瞬(1999年に飛んでいた期間)消えていることになる。1999年から戻った文明は、改変された未来を知らず2012年の自分が何をしているのか分からない。
過去から帰ってきた文明はもちろん全裸。それを待つのは彼より年上になったマヤ。そんな文明に「おかえり」とマヤが言ってくれれば、彼の苦労も報われることだろう。変わった未来での変わらない関係。
そういえば、2012年の美風はどうなっているんだろう。なんとも年齢不詳な外見だけど、13年経っても容姿はそのまま?それとも……。女性はオカルト……。


このエントリーはフィクションです。
書いてる本人が訳分からなくなってる、そもそも何きっかけで書き始めようと思ったのか、長いなどの摩訶不思議は
決して実際に存在しません。
あなたがそれを信じない限りは・・・・・

*1:2話の描写から学院内にあると考えるほうが自然か。

『けいおん!!』目線の意識と演技する画面

けいおん!!』は、高校を卒業した後に楽しかったねと語られるような「美化された思い出」ではなく、今後そうなるであろう瞬間をキャラクターに体験させ、思い出になる出来事の瞬間=「今」を美化することなく描いていく作品だろう。アルバムを見返し(振り返り)ながら語られるような、ある種逆行的に選択された出来事の中を、キャラクターたちはそのことには無自覚で前進していく。

  • 目線の意識から考える「大人の不在」

劇中でのエピソードは、何年後かに「装飾された思い出」になることの元ネタだ。ただ、作品内においては思い出による演出(補正)を受けていない現在進行形の出来事として描かれているので、かつて高校生だった人が自分の「装飾された思い出」と彼女たちの「今」を比べて見てしまうと、ぬるいとか甘いと感じられてしまう。恐らくそういったラッピングされた思い出から「かくあるべき」と彼女たちを規定する、所謂「大人」の目線はこの作品(また多くの高校生)にとって非常にうっとおしいものだろう。親を含め大人が殆ど登場しないのも、こうした理由があるからなのかもしれない。「最近の若者は〜」「自分が高校生の頃は〜」「高校生なんだから、もっと〜」「お前のためを思って〜」みたいな言葉を、自分の過去の姿や思い出が装飾されたものということに無自覚で言ってしまう人(親や教師が必ずしもそうではないけれど)は、この物語に介入はおろか登場することすら出来ない。*1


たびたび話題に上がる練習や勉強の描写の少なさについては、この「思い出の元ネタ」と「大人の目線」の二つの観点から考える必要がある。前者であれば、ただ練習した勉強したよりも「普段と違う環境下で練習した(or出来なかった)」とか「みんなで勉強した(or出来なかった)」のほうが思い出になりやすいということ。
そして、後者。練習・勉強のような自分の為にやることは、やっている姿を他人に見せるためにやるものではないので、その姿が「大人」には見えにくい。いくらちゃんとやっていようとも、「練習しろ」「勉強しろ」と親や教師から言われた経験というのは大抵誰もが持っているだろう。作品内に大人的目線を導入するのはこの作品においてはタブーとなっているが、それが外部=視聴者から向けられるものであれば話は別だ。姿が見えなければ視聴者は「勉強しろよ」「練習は?」と小言も言いたくなる。これは、かつて自分が言われたことそのものだろう。かつて自分が言われたことをキャラクターに対して思わせるというのは、彼女たちが現在進行形の高校生なのだと思わせるに十分な説得力を持ち得ることになる。
つまり、練習や勉強の描写が少ないのは、「時間を経て起こる思い出化の取捨選択を現在進行形のストーリー上で行っていること」と、「あえて描かないことで得られるものを重視」した結果であって、何も努力を否定している訳ではないだろう。

  • 20話:「ライブシーンと演奏後の部室」

彼女たちは現在進行形の日常の中に居て、ひたすら前だけを見て進んでいく。もろもろの出来事が「思い出」になるのは作品が終わってからで、基本的に作中では思い出化させない。これが崩れたのが20話「またまた学祭!」ライブ後の部室での描写だ。
演奏前のやりとりやMCにおいて、最後を意識させるような言葉を頑なに言わせない( 唯「文化祭ライブも三回目」、澪「ここにいるみんなとバンドが出来て最高です」、紬「バンドって凄く楽しいです」etc)。最後を意識させてしまうと、これから描かれるもの(ライブ)が思い出になることを彼女たち自身が確信してしまい、現在進行形の出来事に「思い出による演出」がかかる事になってしまうからだ。描かれた挿話が後に思い出になることは殆ど確定事項ではあるが、キャラクターはそのことに対し自覚的には振舞えないし、振舞ってはいけない。装飾された思い出を描く作品ではないからだ。だからステージ上の5人の姿は見たままの姿で描かれ、光や背動のような演出はキャラクターの誰の目線でもないものに施される。*2



U&I」演奏時にサイリウム代わりに携帯を振る観衆の姿があるが、これも決して無関係ではない。MC時は、メンバーをカメラで撮影する観衆の姿があるが、演奏時にはそれが一転サイリウム代わりになる。写真に収まることは思い出化の確定とその自覚に繋がる演出だが、ラスト曲の演奏中にカメラ(背面)ではなく、画面(前面)がステージに向けられることで、文字通りその意味は反転し、この場面が現時点では思い出による演出を受けることのない現在進行形の出来事であることが、ステージ上の5人だけでなく講堂の生徒たちにも拡大し強調されることで、その後のシーンでの涙の意味をより深めることになる。*3だからあの場面には、観客を含め今を生きる「私たち」しかいない。



講堂全体に広がったこの最高に内輪向けなライブを、中で見るか外から見るか、「何処」で「誰」で見るかは視聴者が好きに設定出来る作りになっている。*4
唯の父親と思われる男性が、ちゃんとしたカメラを持っていることも印象的。彼はこの瞬間が思い出になることを知っている目線の持ち主として描かれている。



演奏を終えた後の部室で、彼女たちは互いに「よかった」と言いながら泣き出す。ライブを振り返る、すなわちこれまでの駆け抜けてきた一回性の出来事を自分の中で思い出にしてしまったことで、それらがアルバムに貼られた不変の出来事に変質してしまう=ルールが崩れるから泣く。だから、あの場面で彼女たちは泣いていい。*5

以前のエントリーで書いた「あずにゃん問題」についても、この20話と次の21話でほとんど解消されたと言える。そもそもこの話題は、3年生の卒業による関係性の断絶、去る者と残される者の構図の様なネガティブスパイラルの連続を根底に派生するもので、「卒業しちゃうの寂しいよね」ということとは関係ない。それが寂しいのは当たり前だから。
20話、演奏後の部室での「皆さんと演奏できて幸せです」というセリフは、「でした」ではなく「です」であることで、「5人の関係継続の担保」と「梓自身の継続性の自覚」を端的に表す強い言葉になる。部室から講堂に向かう場面で描かれた梓のPOVは「あずにゃん問題」を強烈に想起させるものだが、それを含め、これまで表立っては描かれずに裏で走っていた懸念を解消させる一言だったと言える。また、リードギターが梓に変わっていたのも印象的だ。
21話の卒業写真撮影の予行練習の件では、撮影を翌日にし、わざわざ律がデジカメを持ってくることになる。3年生4人を撮るのだから撮影者は当然梓になるだろう。それならば、その場で梓の携帯カメラで練習すればいいし、むしろその方が女子高生っぽい。でもしない。当然これは、梓のカメラに4人を写真に収めることで4人と梓の関係が思い出として確定され、残される者の強調すなわち「あずにゃん問題」を不必要に再燃させてしまうことになることになるからだろう。これについては、また別の意味合いも含んだ場面でもあるので、次項で。


このように『けいおん!!』では、作品内部や外部からの目線・視線へ自然に意識が行く、または利用するような作りがなされている。これは監督である山田尚子さんのコンテの特徴*6でもあるから当然と言えば当然なのだが、詳しく書くのはまた別の機会に譲り、今回は21話の印象的なレイアウトを振り返ることで、このエントリーをまとめにする。この回のコンテ・演出は北之原孝將さん。

  • 21話:「縦と横のもつ意味」

ほとんど解消された「あずにゃん問題」ではあるが、その匂いは依然として残る。その匂わせ方と解消の役目を担うのが、画面構成とりわけ縦(↑)と横(←→)の印象性だろう。
憂から卒業アルバムの写真撮影があることを聞き、ふと思いを巡らせる場面は←→の印象。その後、3年生の教室に向かい、その姿を見るときは↑、口角は上がるが眉毛は下がる思慮深げな表情の場面は、廊下の←→と窓越えの↑でその複雑な心境を印象付ける。



基本的にこの挿話では、横:負・不安や悩み/縦:正・安心や決断のように、縦で横を打ち破るような意味合いをもつ。
運動部の3年生が引退した寂しげなグラウンドは、←向きに走る生徒の印象も手伝い横、しかし不安になった梓が走りだす廊下は縦だから、部室にはみんながいる。部室も縦。



写真撮影は縦(向けるカメラと向けられる被写体の主観で)で行われるから、4人そして梓は徐々にそれぞれの決意を固め始める。これが先に触れた別の意味合いの部分で、梓のカメラに収めるのではなく、あくまで撮影者ということでイメージを相殺しつつも、構図の印象、この場合は縦の決断を繰り返すことで、梓の中で起こった「あずにゃん問題」を、梓自身によって解消させる(できる)という意味合いも帯びている。勿論これだけでなく、脚本上でも部室でのやりとりで浮き彫りになる5人の相互補助性を描くことで不安の解消は図られている。


澪が推薦について悩んでいる場面は、その進行方向と後ろに塀、家壁、山があることも手伝い横の印象。横には障害なく進めるが、縦に行くためには文字通り壁や山を越えなくてはならない。推薦を断りみんなと勉強して同じ大学に行きたいと告げる場面は、縦の印象だが不安げな印象を受ける。次にカメラが切り替わると後ろに階段があるのが秀逸。澪の決意への不安を引き続き描きつつも、澪の後ろに上(縦)に上る階段が3人には見えることで、この決意が4人にとって良いこと、4人だから共に乗り越えていくことができるものだというイメージを与える。



この後の下校の風景は縦のPANと奥行き(縦)のある構図でそれぞれの決意が固まったことを、直後の川も縦でその決意がやがて広い海に出ること、ラストの空も同様に、今はまだ窓越しで全てが見渡せるわけではないが、これからの彼女たちの世界が広がっていく幸福な未来をイメージさせる。



校舎の外観も、日が変わったという意味だけでなく、「3年生が卒業すること(紅葉)への梓の思慮」「澪の今後への悩み」「5人の決意」を想起させるものになっているだろう。



  • おわりに

原作と共に近づく最終回を前に、語りかける画面と対話し、どの目線、誰の視点で作品と向き合うかを考えてみるのもいいのかもしれない。

*1:さわ子は、かつての自分も彼女たち5人と似たようなものだったと認識しているキャラだから登場できる。

*2:ステージ上なら律・紬より奥、向かって澪より左。梓の右には和がいるが彼女も「3年間頑張ってきたので侮ってはならない法則」から、右ならちょっと上から。とにかく、5人(と観客)の見た画は、補正なしの見たままの姿しか描けない。

*3:反転という意味では、唯が「最後の曲」といった後に携帯の向きが逆になるが意味深い。

*4:軽音部5人の誰か(内)/さわ子・和・憂・純(内と中)/クラスメイト、観客(中)//見守ってきた自分(内的な外)//あくまで視聴者としての自分(外)etc

*5:最後と思い出は必ずしもイコールではない。この場合も、先に進む決心を固める段階に入ったということだから、これは最終回じゃない。

*6:涼宮ハルヒの憂鬱』20話「涼宮ハルヒの溜息?」のハルヒキョンが部室に入ってから、ハルヒが出て行くまでの一連のシーンにおける視線交差の連続性や、『けいおん!』番外編「冬の日!」の交わらない視線とその回復が分かりやすい。