「あずにゃん問題」は起こってるけど、起こってない。

俗に言う「あずにゃん問題」は、「三年生組が卒業した後、梓はひとりでどうするのか。」「軽音部の存続(今後)は?」みたいな事を焦点にして起こっている訳ですが、これって起こってるけど、起こってない問題だと思うわけです。正確に言えば、「作品としては起こってはいるが、ストーリー上では言われるほどの大問題として起こってるわけではない」という感じです。
つまり、「あずにゃん問題」は見てる側によって起こる問題なのです。勿論、それは意図され起こるべくして起きたたものだと言えますが。
そんな話を#13「残暑見舞い!」のことに軽く触れつつ考えていきましょう。


あずにゃんの生き物預けられ率は異常!」


トンちゃんは夏休みの間、梓の家で面倒を見ることになったみたいです。1期でも純ちゃんから「あずにゃん2号」を預けられていました。「信頼されてる」とか、「お人好し」「利用されてる」とか人によって感じることは様々でしょうが、まぁそれはどうでもいいです。
別に部活なんだから休みの間学校に行っても怒られたりしないでしょうし、部室でみんなで勉強しても文句は言われないでしょう。お茶飲みながら、3年生は受験勉強、梓は宿題。疲れたらちょっと練習して、息抜きして帰るみたいな感じでもいい訳です。13話はお盆で学校閉まってるとか、ムギが旅行中だからやめたのかな?とも思いましたが、学校遊びに行っちゃうし、その前の話では夏フェスの打ち合わせを平沢家でしてるので、たぶん休み中はたまに集まる感じにしてる。次回の「夏期講習!」では学校に行くみたいですから、別に今回の挿話は無くてもいいはずです。でも、受験勉強をする3年生と、残された梓の話を「あえて」やった。ちょっと毛色の違う回で。
梓と視聴者に「あずにゃん問題」(梓:『ひとりになる』 視:『物語が終わる』)は起こっているわけですが、3年生組には起こってない。起こってないと言うと、彼女らが冷たく感じられてしまうかもしれないですが、たぶん3年生組は「卒業したから何?5人でバンドやるでしょ?」というメンタリティで動いているように見えます。これが、「起こってるけど、起こってない」ということです。
じゃあ、何故こんな面倒くさい現象が起きているかというと、「見てる側に勝手に話を作らせる」というのが、かなり意識的に行われているからです(ちょっと趣旨は違いますが、「Angel Beats!」のまとめ記事でも書いたことです)。ストーリー上で「大問題!」として起こるものではなく、「これ見たら、普通こう思うよね。」という感じで、ストーリー上で起こっている訳ではないことを、見てる側には必然的に感じさせるように意識されて作られている。

今後「あずにゃん問題」がストーリー上に表面化した場合への準備をさせているし、特に問題化することなく話が進むなら、「あずにゃん問題なんて杞憂に過ぎなかったんだ!よかった!!」の、どちらにも対応できる。山田監督マジ策士!


こうした受け手依存は、「演出」や「受け手の経験」を上手く利用したものでしょう。
「演出」は見れば分かること(自分の感じたことが正解という意味で)なので、あまり触れたくはありませんが、13話は「ストーリーに合わせた演出というよりも、演出にストーリーが引っ張られる」ような印象を受ける回でした。「あずにゃん問題」に限らず色々感じたことがあると思います。

そして「経験」。そもそも「あずにゃん問題」は、1話の新入部員関連に端を発したものではありますが、2年生組の話が描かれた5話「お留守番!」での学年による離別や、ストーリーが展開し残り時間が少なくなるにつれて、見てる方でじわじわと勝手に問題を大きくしてくれます。そうなるように意識されてる。これが、1つめの「経験」です。
そして2つめの「経験」。それが、昨年、涼宮ハルヒの憂鬱で8回繰り返された「エンドレスエイト」でしょう。梓が夢で見たり、実際に行ったりした「映画」「バイト」「プール」「夏祭り」は、どれも夏休み的ですが「エンドレスエイト」を知ってる視聴者にしてみれば、「何かおかしい……」と不穏な空気を感じますよね。恐らく「ハルヒ」と「けいおん!!」は京都アニメーションの制作というのを除いても、視聴者層がかなりかぶっていると思われます。恐らく、ここすら「経験」として利用している。
つまり、作品を見て勝手にじわじわ感じた「このままじゃ、あずにゃん一人になっちゃうんじゃね?」という経験と、「エンドレスエイト」を見た経験から、「何かヤバイことが起きそう……。」と、「あずにゃん問題」を勝手に作り上げてくれます。こうなったら普通にお茶してるだけでも、1期で散々言われた「物語がない」という点を完全に回避できますよね。「あずにゃん問題」は受け手には確実に起こっているわけですから、作品の背景に自分の物語を投影をしてくれます。
これまでの「けいおん!!」関連の投稿で私はよく「見られていることの意識」という言葉を使ってきました。これはどんな作品にも言えることではありますが、ここまでうまく作られ(作り)、皆が同じような物語を見れる(解釈の差異はありましょうが、「あずにゃん問題」は感じている)というのは凄いことだと思います。作品性格の問題なので、それが良いとも悪いとも言えませんが、「けいおん!!」が受け入れられていることは確かです。


あずにゃん問題」の解決方法としてよく挙げられるものに、3年生卒業後に「憂と純+αを迎えて新生軽音部」を作るというものがあります。確かに、花火を見ようと唯に手を引かれ、はぐれてしまった方向から憂と純が登場する「演出」は、その可能性を大いに示しています(憂がさわちゃんに改めて挨拶するなんてのもありました)。しかし、そうした「代替としての軽音部」を作品内(少なくともアニメの中で)で登場させるのかはわかりません。夢で見た内容をもとに書かれた暑中見舞いで、現実に起こりうることを阻止しようとしている「ストーリー」も描かれている訳ですし。
では、この意図的に起こされた「あずにゃん問題」は、「代替軽音部」という分かりやすい手段で解決してしまうのか、視聴者にお任せしてしまうかのどちらが望まれているのか。原作の展開にも依存するでしょうが、アニメに限って言えば、【続けるなら:「代替軽音部」】、【終わらせるなら:「お任せ」】になるでしょう。どちらにしても原作では「その後」を続けられるでしょうし。
何となくではありますが、アニメでは『「代替軽音部」の可能性を限りなく示した「お任せ」』を提示するのが、一番スッキリするような気がします。

卒業式でライブをして、卒業していく唯たち(別れ)

桜の季節。部室にひとりでいる梓(「あずにゃん問題」)

「唯センパイお元気ですか?ちゃんと大学行ってますか?」とメールを打つ梓(繋がり)

携帯を閉じると同時にドアの開く音が聞こえ、振り向く梓(「代替軽音部」の可能性)

ひとつの方法ですが、こんな感じなら「あの5人だから「けいおん!!」だよ派」にも「新しい「けいおん!!!」が見たいよ派」も納得いくんじゃないでしょうか。
ここまで書いていて難ですが、まぁどちらでもいいですね(笑)


とかく、今のところ「あずにゃん問題」は起こっているけど、起こってないという意味はわかっていただけたと思います。もう、2期ここまでの主人公は梓ですね。「けいおん!!」の世界を、梓越しに見ているから「あずにゃん問題」が起こり得た。
今後も『「演出」での「あずにゃん問題」』を『「ストーリー」で阻止する』という展開になりそうです。それがストーリー上にも表れたとき「あずにゃん問題」は確実に起こったと言えるでしょう。
きっとその時は、梓から見た下級生のモブキャラクター(頬を丸く染めた、同じような顔をした人たち)は、それぞれ個性を持った顔に見えてくる(変化する)ことになるんじゃないかな、とも思います。


おまけ
以前、「テロップの入る箇所は触らないで欲しい場面」ということを書きましたが、これはもう決まりでいいんじゃないかと思います。12話は、あずにゃんがペロペロする場面ですし、13話では、とうとうBパートまで引っ張ってプールの着替えシーンでした。「いちばんうしろの大魔王」では極大テロップでネタ化していましたし、シャフトのエンドカードなんかもそうですが、こういう取り組みは、他の作品でもどんどんやっていいんじゃないでしょうか。作品であると同時に商品でもあるわけですから。

あと、来週あたりにOPは変わるんでしょうか。ムギに寄りかかるあずにゃんのカットは「けいおん!!」のトップ5に入る名シーンだと思っているので、ちょっぴり寂しいです。もし変わったら、その時は誰の目線で描かれているかを是非見てみてください。
(参考:どうやら二次元に行った人がいるようだ。「けいおん!!」OPとテロップから見えるもの

「Angel Beats!」想像力の方向性 -My song に呼応する Your Song-

はじめに

この投稿は、「Angel Beats!」とは一体何だったのかを【構造】【ストーリー】【想像力】の三編で振り返るものであり、ストーリー的な謎解きをするというよりも作品自体が持つ大きな謎を探ることで、いかに自分を納得させられる物語を見つけ出すかを主たる目的とするものである。

構造編

Angel Beats!」は、提示された謎をひたすら追っていくことで展開した物語である。言い換えるなら、物語の持つ「可能性」は冒頭が最も大きく、進展するに従いその「可能性」を物語の外部へと捨て去り、収束していくことでほとんど自動的に解決・終わりを迎えるような構造の上に成り立っている。
つまり、死後の世界の「謎」と「記憶喪失」である主人公:音無の目線を通し描かれる物語は、謎・記憶喪失であるが故、いかようにもなり得る可能性を孕んでいるが、ある時点で提示された条件に従い推察された物語の持ち得る可能性(例えば「死後の世界=電脳世界説」「ゆりは音無の母親説」「音無は生まれる前の胎児説」)【図1】は、ストーリーが規定される【図2】と同時に棄却され、物語の外部へと放出されていく【図3】。(図1から6は、横軸(→):ストーリーの進行・縦軸(↑):物語的可能性)




物語が進展するにつれ、そこに内包される可能性が次第に縮小し物語を終えようとするこの構造は、ミステリーや謎解きに似ているように見える。ミステリーであれば、規定はアリバイや動機の有無と言い換えることが出来るだろうか。では「Angel Beats!」はミステリー作品なのか。答えは否だろう。脈略なく突然現れるご都合主義的な物語的の規定(例えば直井の超能力や成仏の価値転換)は、物語に非論理的な武力介入を謀る(侵食する)という破壊的な面白味を持つが、結局は表層の物語に一瞬関与するだけで、その可能性が物語に内包されず、結果的にストーリーを断片化させてしまっているからだ(後述【図6】)。なので、たとえ構造がミステリー的であってもそのままイコールで結びつけることは難しい。
「物語の進行が恐ろしい程に遅く退屈あり、脚本が理不尽で破壊的」という作品への印象は、おそらく「Angel Beats!」が持つこの特徴的な構造によるものだろう。作品を擁護する意見として、「批判されている部分は麻枝准の過去作品で散々議論し尽くされたもの」「麻枝的想像力に慣れていない受け手の問題」といったようなものをよく見かけたが、少なくとも私はその意見には納得出来なかったし、説得もされなかった。私のように麻枝的なストーリーにあまり慣れていないライトな層も、また「Angel Beats!」で初めて麻枝作品に触れた人でも、このアニメがどこか普通ではないことには早い段階で気付いただろうし、ある作品を視聴する上で、監督や作家、脚本家の過去作品やその人の作家性を知っていることは楽しむ為の近道にはなるだろうが、知らなければ理解できない、分からなければ感性が足りないと言う言動には得体の知れない選民意識が見え隠れし、他の受け手さらには作者すらも貶めるだけで何の意味も持たない。そもそも批判の矛先は、表層の物語よりも作品構造に端を発しているものが殆どだと思うので、そもそも物語構造の異なる「Angel Beats!」を過去の麻枝の作品であることを理由に擁護・補完するのはこの場合においては不可能だろう。
確かに「Air」なら翼人伝説、「CLANNAD」なら町と幻想世界が「Anegel Beats!」の死後の世界と対応するだろうし、ある種のシステムに登場人物が翻弄され、それぞれ折り合いをつけることで物語を終えるという物語の規定(=ストーリー)はよく似ているかもしれない【図4】。しかし、そのシステムを抗うべき対象と自覚的に捉える「Angel Beats!」と、運命や理不尽さに無自覚に弄ばれ続ける他作品には微妙な差異がある。決定的に違うのが構造である。
例えば「Air」なら運命に縛られた登場人物たちが如何にして死を選択出来るかが描かれる表層の物語は、受け手側にメタ的に発生した自分はか弱い女の子を救うことができるという過剰な自意識が作品内に色濃く反映されている点を除いて「Angel Beats!」と非常に似ているが、DREAM・SUMMER・AIRの三篇で綴られた物語は外部に放り出されるのではなく、それぞれ構造内部に転化されている点で違うものと言えるだろうし、「CLANNAD」で表層に描かれる物語(可視化されたストーリー)は、あり得たかもしれない可能性(例えば、渚以外の○○ルートのような展開)が物語に内包される、つまり可能性の犠牲が内部に蓄積することによって成立する物語【図5】であってその構造は「Angel Beats!」のそれとは全く異なる。




つまり、「冒頭に提示された物語の謎に一直線に向かう展開」「あり得た可能性が物語内部に全く蓄積されない構造」「表層の物語への唐突な侵食」という致命的な構造の欠陥に起因する批判は麻枝准であることを理由に反論・擁護できるものではない。表層に乗っているストーリーが麻枝准的なのは分かりきっており、誰もそれに対して批判をしている訳ではないので、彼の作品であることを理由に反論されても埒が明かない。問題となって浮き上がってくる物語の断片化は、その構造に因るものであって構造を異とする過去の作品群を例に擁護する行為もまた説得力を持たない。完全な擁護をしたいのであれば、脚本が麻枝准であることを隠されていた場合にも有効足りえる回答である必要がある。

【図3】をより詳細なものにして構造編を終えることにしよう。



詳細なものと言っても【図3】を少し変えただけだが、黄色の部分が先にも述べた物語への武力介入、侵食の箇所である。4つなのは便宜上そうしただけで特に意味はない。「Angel Player」「直井の超能力」「成仏に対する価値観の変化」「10話ユイと日向のやりとり」「謎の青年」などなど、人によって「?」と感じる箇所は様々だろうが、物語の外部から唐突に現れるこの価値規定(転換)は物語の内部に還元されるわけでもなく、ただ物語的規定(赤線=我々が見ることの出来るストーリー)を断片化させる【図6】。
この『構造によって断片化されたストーリー』が「Angel Beats!」の持つ最も魅力的で重要な部分なのだが、その詳細は想像力編で。

ストーリー編

我々は描かれたストーリーにアクセスすることで印象を形成していく他ない。構造編で取り上げた物語的可能性の内包/棄却もストーリーによる規定に頼ったものである。
Angel Beats!」においてストーリーへの導き手となったのは音無だろう。突然謎の世界に放り込まれ、しかも記憶喪失という特性を持つ音無の姿に視聴者は自分を投影しやすく、まずは彼の視線を通して描かれるストーリーで物語にコミットしていく。記憶喪失の主人公が様々な経験を通じ成長し、謎や敵に立ち向かう様式は非常にスタンダードな手法であるといえる。とかく視聴者は音無と他者との関係性や、彼が見る世界からストーリーを見出していく。


まず我々は記憶喪失+何も知らない音無と同じ状態で、世界で始めて出会った人物であるゆりのバイアスがかかった世界を見ることになる。つまり、『視聴者⇒「音無←ゆり←天使(世界)」』のように、それぞれのフィルターでろ過された、ないし歪められた情報を元にストーリーと世界観を認識する【図7】。



岩沢の成仏などを経験した音無は世界について自分で考え始め【図8】、直井の反乱や天使との会話によって音無は徐々に世界にコミットする【図9】。5話・6話(テスト・食堂・幽閉)のあたりから「個としての天使」は世界の謎からは独立した存在となる。この時点でゆりも世界と天使に対して思慮を巡らせているので、「世界を通して天使を捉える:ゆり」と「天使を通して世界を捉える:音無」にズレが生じ始めたといえるかもしれない。




7話で記憶(この時点では一部ということは知らされていない)を取り戻した音無は、「死後の世界の経験」「自己の記憶」「ゆり」そして「個としての天使」と向き合うことになる(呼称の変化:天使→立華→かなで)。ゆりも、これまでの経験に加え、釣りでの様子を見ることや分裂・Angel Playerの操作を通じ、天使を個として捉え始めていったのだろう【図10】。



9話で記憶の全てを取り戻した音無は、天使と共謀しSSSの面々を成仏「させてあげる」(10話)ことになる。この成仏を肯定的に捉える価値変換は、「自分が規定する世界」が「世界に規定される自分」を凌駕する様、つまり世界の問題が個人の問題にシフトするセカイ系的想像力に基づいたものかもしれない。この挿話で音無とゆりの思想は一時的に乖離する【図11】。



この後、世界システム(=神)は登場人物の中に完全に包括されることになる。音無の考えが正しいもの(=世界への回答)として描かた10話と、音無との世界認識の差異をゆりが認めた11話に加え、12話ではゆりと世界をコントロールする代弁者的存在である謎の青年との対話がなされ、ゆり個人の問題として解決される。世界の問題がそのまま個人の問題へと還元ないし解体され、世界が個人の内に取り込まれる様が描かれたのがこれらの挿話だろう。一旦離れた音無とゆりのストーリーも、外枠にあった世界が個に内在したことで、互いの共通項を見出すかのように再び接近する【図12】。



端的に言ってしまえば、あの世界に神などいない。12話教室でのゆりの自己問答は、「記憶を失い、性格も変わって生まれ変わるなら、それは自分の人生ではなく他人の人生だ。自分の残酷で理不尽な人生は自分が受け入れるしかない。しかし、そんな人生は受け入れられないから自分は戦う」というものだった。この時点で彼女は、理不尽な人生を強いた「神」に縛られているのではなく、自分の人生を受け入れることが出来ない「自分自身に縛られている」ことに気付いている。ひょっとしたらもっと以前に気付いていたのかもしれないが、ここで初めてその思いが表面化=ストーリー上に登場する。つまり「神」は、世界のシステムに存在するものではなく、自らの内に在ることを悟るのだ。音無は生前報われた人生を送ったため本来未練を持たないが、仲間にも報われた気持ちを知ってもらいたいという死後の世界で出来た気持ちを果たすために行動している。要するに、自己を縛る「生前の未練」や「心残り」こそ神で、それはシステムでも存在するようなものでもなく、自分の中にあるものなのだ。音無は報われた自分の人生の記憶を取り戻すことで、ゆりは自分の人生を受け入れることと、作中の言葉で言えば仲間に対する「愛」に気付いたことで、自らの内にある神とそれぞれ決着をつけることになる。


個によって解決・決着を迎えたこれらの過程を経て、死後の世界の認識は「自分を取り巻く問題」から「個人それぞれの問題」へと変換し個人に内在化された。三者の思惑が一致している部分が作品的ストーリー(13話であれば卒業式の件)として表面化したのだろう【図13】。



物語的可能性をストーリーによって規定するのだから、それらが共に収束(【構造:可能性の縮小】【ストーリー:個人化】)していくのは至極当たり前のことだろう。では、「あったかもしれないという可能性」や「犠牲」が内在されず物語の外へと棄却される構造を生み出した規定(=ストーリー)と、それすら突如として規定外部からなされる武力介入により断絶させるという、構造的欠陥と規定的矛盾を抱える「Angel Beats!」を受容するためにはどうすれば良いのか。次項の想像力編に続く。

想像力編

Angel Beats!」がMAD的想像力で作られた作品ではないかということが多くの方によって指摘された。これは、ゼロ年代の作品群、例えば「涼宮ハルヒの憂鬱」「コードギアス」「DEATHNOTE」等や、麻枝の過去作品の美味しい部分を繋ぎ合わせて作られた作品が「Angel Beats!」なのではないかというものだ。MAD的というのであれば加えて意識しなければいけない部分がある。それが『「Angel Beats!」は作品そのものがMAD動画である』ということだ。想像力のMADで作られた作品であるのに加え、作品自体がMAD化しているという特徴を持っている。
MAD動画は、時系列や整合性は無視し作品の美味しいところだけ抽出して繋ぎ合わせ、バックに場面にあった音楽をかけて作られる二次創作作品である。作品本編を知っている人は動画の背景にあるストーリーを思い出し、感動したり笑ったりといった反応をする。知らない人でも動画に熱量があれば同様に楽しめるだろう。とかく、MAD動画はその背景に本編のストーリーを想像させること、ないしは動画内の熱量で感情を誘発するような特徴を持った作品である【図14】。



先にも述べた、「Angel Beats!」は作品そのものがMAD動画化しているというのは、作品内で幾度か描かれた「泣き」を想定した場面、例えばそれは、

  • 03話:岩沢の成仏
  • 06話:直井と音無
  • 09話:音無が記憶を取り戻す一連の流れ
  • 10話:ユイの成仏
  • 12話:ゆりと謎の青年のやりとり
  • 13話:音無とかなで

のようなシーンに代表される。これらはいずれも「セリフ(脚本と演技)」「演出」「音楽」を印象的に作用させることで、大事なシーンであることを強調している。ストーリー的な流れを考えると、あまりに唐突で事故的発生するので「感動」というよりむしろ「驚き・困惑」の方が大きい。しかし、前後の文脈や整合性を全て無視し、その場面「だけ」を切り取って見ると不思議な熱量がある。整合性よりも、熱のあるセリフ(「やんよ!」など)・演出・音楽に重きを置かれ描かれたシーンだけを見る限りにおいては感動できるような要素が存分に詰め込められているのである。まずこの点において「Angel Beats!」はMAD動画的だといえるだろう。
このMAD的なシーン群が構造編で言及した、物語に唐突になされる武力介入・侵食の正体である。文脈を無視し描かれる「感動的」なシーンはそれ自体が整合性より熱量を重視した存在であるが故、ストーリーを分断する。つまり、そのシーンが無ければ物語として成立しないにも関わらず文脈の外から唐突に侵食してくるが故、本筋をも断片化させてしまうのである【図6】。
恐らく、多くの視聴者は「泣きゲー」のジャンルを確立したとされる麻枝准の作品である「Angel Beats!」に「泣き」や「感動」を求めただろう。多少整合性が無くとも熱量があればそれでストーリーを補う準備は出来ていたかもしれない。しかし、可能性と犠牲が内包されないこの作品の構造では、熱量だけで押し切ることはできなかった。求められた「感動」を描こうとすればするほどストーリーがズタズタに引き裂かれる悲劇的な状況に陥っていく。つまり、こういったシーンが描かれる度に、それ「以前」と「以後」がまるで別物の話のように点在していくことになる(例えば、直井が仲間に加わる以前・以後)。物語の整合性を熱量で凌駕しようとする様はMADの特徴そのものだろう。
これら構造的欠陥に端を発するストーリーの断絶、作品全体においてなされる整合性を熱量で押し切る「Angel Beats!」は一次創作の作品でありながら、二次創作のMAD動画のような特徴を意図せず持つことになる。

制作者は整合性の取れた完全な形として創作・提示しているだろう。しかし、受け手にとっては少々分かりづらいものだった。作り手側が10を描いても、受け手側にそれが10のまま伝わる訳ではないし、主観や好みが影響するので意図した形で受け取ってもらえる保障もない。どんな作品でも伝播の過程で欠損は起きる。これを上手くコントロールするのは作り手側、読み解くのは受け手側に依存するだろう。「Angel Beats!」であれば伝播過程に加え、構造によるストーリーの断片化という欠損が起こっている。コントロールの失敗は確実に起こっただろうが、それでも我々がこの欠損したストーリーを読み解くにはどうすれば良いのだろうか。ここからは受け手側の想像力の話になるので、その前に簡単な例を提示しよう。





ミロのヴィーナスは両腕が欠損している。今となってはその完全な姿を観測することは誰にも出来ない。この場合、欠損が生まれた伝播過程は時間である。人々がミロのヴィーナスに魅了されるのは、いかようにもなり得る無限の可能性を感じるからだろう。「欠損の美学」がそこにはある。つまり欠損は受け手の想像力によって補うことが出来るし、正解の無い答え探しは人々を惹き付ける。
Angel Beats!」にも欠損があることは先にも述べた。「構造的欠陥に因るストーリーの断絶」と「MAD化した作品」がそれだ。本編ではMADとしての断片が提示され、その本筋は受け手に依存するような状態がこの作品にはある【図15】。作品自体は「二次創作」的な『一次創作』で、受け手側は『一次創作』から欠落している部分を「二次創作」する必要がある。つまり、MAD的に提示される作品本編からこぼれ落ちた物語をその背景に見るのではなく、それを基に「自ら本編を構築する」必要がある。与えられた断片を自ら体系化することで作品は完成される。



物語の欠損を想像力で補うのは、行間や余白を読むのとは異なる。行間や余白は意図して書くもので、欠損はページが破かれた状態に似ている。では、失われてしまった物語を補うにはどうしたら良いか。ここで重要になるのが「外部に描かれた物語」だ。
「外部に描かれた物語」で最も代表的なのが音楽だろう。「Angel Beats!」では実に多くの楽曲が書き下ろされている。そのどれもが脚本の麻枝准による作詞・作曲のものなので、ここにも当然物語があると考えられるだろう。OPは天使、EDはゆり視点の楽曲だと言われているし、ガルデモの曲なら岩沢やユイの気持ちをそこに読むことができる。OPは、震える魂は音無からかなでへと移植されていた心臓を思わせるし、タイトルからして「私の物語はあなたの鼓動によって紡がれる」とド直球に解釈することができる。EDも、ひとり戦っていると思っていたゆりの側にはいつも愛すべきSSSのメンバーがいた、みたいなことを連想させる。
ガルデモのボーカルが二人とも先に成仏したのも「外部に描かれた物語」で欠損は補修できるという前提があるからだろう。ユイの成仏に関して、監督・脚本の対談でEDが伏線になったという驚くべき発言があったが、これも「外部に描かれた物語」なのだろう。つまり「岩沢の思い」や「ユイと日向の関係」は、EDなりガルデモの楽曲なりでそれぞれが補完し納得いく物語を作っていいということなのだろう。
音楽に関連して言えば、先に挙げたMAD的という言葉は「作品自体が音楽化している」と言い換えることも出来るだろう。盛り上がりの部分がサビで、人々はその旋律(演技・演出)や歌詞(断片化したストーリー)から壮大な背景を描き出す。ひょっとするとこの作品は音楽的想像力で紡がれたものだとも言えるのかもしれない。
こうした作品と音楽の関係に注目してみると、「Angel Beats!」は「戦隊ヒーローもの」や「休日の午前中アニメ」のような『おもちゃ』を出すことが前提として作られた作品に近いとも思える。この場合の『おもちゃ』は麻枝准の作り出す音楽ということになる。多くの人が彼の音楽を聴きたいと思っているだろうし、私自身もそうだ。つまり、感動的なシーンとそこで流れる音楽が大前提にあって、それをいかに繋ぎ合せるかという発想で作られた作品であるとも考えられる。それは望まれていることだし、決して悪いことではない。


とかく、ストーリーが断片化し別物の話のように点在しているということは、侵食によって一連の流れ(整合性)を失い個別化したストーリーもまた、それぞれが他のストーリーに対しての「外部に描かれた物語」として存在していると扱うことが出来る(【図6】の断線した赤線は、それぞれにとって外部の出来事となってしまっている)。つまり、これら「外部に描かれた物語」を条件に、いかに自分が納得し得る文脈を作り上げられるかが重要になってくる。
Angel Beats!」には、ミロのヴィーナスと同様の「欠損の美学」がある。違う点があるとすれば、欠損が伝播の過程で起こったものというよりも、自覚的に行われた物語の消去(=外部化)と、構造的欠陥により完成したときに既に欠損してしている点にあるだろう。しかし、この様々な理由で起こった欠損こそが「Angel Beats!」の魅力だとも言える。完全でないからこそ人を惹き付ける(肯定・否定含め)。仮に受け手に依存した謎の全てが明かされるようなことになれば解釈がひとつに限定されてしまい、非常に退屈な作品になることだろう。謎が明かされることを人々は望んでいない。
「なぜ?」「どうして?」は、物語を振り返って納得する点を自分で見つけ出すしかない。欠損のある「Angel Beats!」に答えはない。視聴者は話数が進むにつれ狭められていく可能性の中で、ストーリーの前後関係や外部の物語を条件にして「本編を二次創作」する。さながら、接続詞だけが書かれた穴埋め問題を解くようなものだろう。「受け手は皆が同じ物語を見ているわけではない」「同じ物語を見ることが不可能」というのは非常に面白いことだと思う。見ている物語が違うのだから、それに対する感想も批判も自分の作り上げた物語に対する評価でしかなく、他人には共有されない(されにくい)からだ。


本編を二次創作する簡単な例(振り返りの納得)
『なぜ天使は麻婆豆腐を好物として認識していなかったか』→「それは生前の音無の好物だったから」→『なぜ?』→「激辛麻婆豆腐を食べて意外とイケると言っていた。記憶を取り戻す前なので好物だとは分からなかった。」→『それと天使に何の関係が?』→「移植を受けると提供者の性格や味覚に影響される例がある。天使も知らないうちに音無の好みの影響を受けていたのだろう。」


割とどうでもいい例だが、「今思えば。」と振り返りることで納得する「条件」を見つけ、物語に整合性を作り出していく手段は分かって頂けただろう。物語の構築は受け手側に託されていて、本編はただ「条件」を提示するものとして存在している。
重要な部分(例えば「音無の演説」や「価値の転換」)は描かずに想像させる「受け手に依存した作品」であるだけに、最終回のCパートは全くもって「Angel Beats!」らしくなかった。その数秒だけで、築き上げてきた作品の魅力を一瞬で崩壊させてしまった。ああいった結末は非常にスタンダードなものだが、この作品においては蛇足に他ならない。
前回までとは別人のようになってしまった登場人物たち(一貫性の欠落)、各自が卒業していくシーン(MAD的演出)、過剰なまでの自己認証とそれに基づく他人の承認(ストーリー的特徴)という「Angel Beats!」を「Angel Beats!」たらしめた要素を満載したBパートまでは、作品のまさしく集大成とも言えるもので、制作者ですら制御不能な暴走した作品の魅力があった。しかし、Cパートはこれまで受け手に依存していた想像力を最後だけ無理やりコントロールしようとする作者側のエゴが垣間見え、作品的な魅力はあの一瞬で奪い去られてしまった。
批判的な意見の多い音無の「一緒に残ろう」というセリフは、恐らく成仏の決心は出来ているが、かなでとの別れを惜しむ「別れの切なさ」や、「人生を受け入れる様」「人間らしさ」を描いたものだろう。やはりこのシーンも、そこ「だけ」を見ると非常に良いシーンだと思う。しかし、いくらストーリーが断片化しているとは言え、視聴者にはそれまで見てきた「経験」がある。9話で記憶を取り戻した音無の価値転換は「独善的すぎる」と私も批判した(「Angel Beats!」弔鐘の音が響くとき)。いずれ思い直すだろうと考えていたが、影の登場によってうやむやになったまま話が展開するし、10話のユイの成仏の流れについての論争はネット上でかなり激しい論争を引き起こすまでに発展した。作品内でも描かれた個と個の対立がメタレベルで起こるとは制作陣も予想していなかっただろう。こうした「経験」をしている視聴者にしてみれば、音無の「一緒に残ろう」の発言は、「こいつやっぱりクズだったのか。」という意見を持つのが自然だろう。こうした誤配が起こりうる可能性すら厭わないという心持ちで作られている作品という印象を持っていただけに、音無がぐずる様子の後に描かれるCパートの裏には、彼と同じような制作側のひよりが見られた。あくまで、作品として「らしくなかった」事を言っているのであって、「救済」を批判しているわけではないことはご理解いただけていると思う。
Cパートの解釈については様々あるようだ。多くの人が現世に戻ったものと考えているようだが、死後の世界に残った音無の妄想だとする人もいる。解釈(物語構築)は人によって違って然るべきだが、「振り返りの納得」を鑑みるに少々無理のある解釈のように思える。ユイの例でも挙げたが、この作品はEDを「条件」として利用していいことは公式に認められている。EDで音無は消えたし、成仏も「仲間が気になるから」という理由で残った音無や日向の存在によって、報われた気持ちを知った後はある程度自分でコントロール出来るもののように扱われている。ラストの心電図の波形は、これまでアイキャッチで使われていたものだが、通常はピアノのラ(A)の音が鳴らされる。これは心停止のアラーム音=死を想起させるものであるし、事実、生前の世界が描かれた9話では音が鳴らない。ラストのENDと書かれたアイキャッチでも音は鳴らないので、やはり転生後の世界(現世)の出来事と捉えるのが自然だろう。*1
想像力を外部に求め、誤解すら武器にして突き進んでいた作品だけに、ラストで「条件」ではなく「答え」を提示してしまったことが残念でならない。

終わりに

【構造編】【ストーリー編】【想像力編】で振り返ってみたが「Angel Beats!」とは果たして何だったのか。
受け手によって感じることは様々だろうが、「慈しみ」「思いやり」「大切にする心」「守ること」「慈悲」「友愛」「自己愛」「恋愛」「欲望」「迷いのもと」……様々な意味を含んだ『愛』という、作品にこめられたメッセージ自体はシンプルだったと思う。
しかし、恐らく多くの人が謎解き的な意味での「正解」を求めていると思う。これは、2ちゃんねるやブログ、mixitwitterなどネットコミュニケーションが発達するにつれ、他人と同じ感想、ないし前提を持ちたいと思うようになったからだろう。しかし、「Angel Beats!」はその物語を個に依存するので、そうした印象の共有をするのが非常に難しい状況にある。しかしそれは同時に、「あなただけの作品」として完結することが出来る幸運だとも言い換えることが出来る。
想像力を作品の外部に求め、本編では「条件」だけを提示し各人で物語を構築させる「Angel Beats!」は、作品そのものよりもそこで得られる体験が面白い。


Angel Beats!」は極上のドラッグアニメである。


※タイトルを「新たな想像力の可能性」から「想像力の方向性」に変更。(2010.7/3)

*1:あくまで私個人の「納得」なので、万人に共感されることでないことは承知済みです。是非あなただけの「物語」を作ってみてください。

どうやら二次元に行った人がいるようだ。「けいおん!!」OPとテロップから見えるもの

けいおん!!」では、いわゆるオタクが「好きなものの追求」と、それにも増した「嫌いなものの排除」が徹底的になされているというのは、誰に言われるまでもなく自明の事として皆さんも感じていることでしょう。その代表例が、男性キャラの不在。「俺の嫁を奪う敵」と扱われてしまう男性キャラは、家族・店員・教師くらいでしか本編に登場しません。つまり、あのアニメは「私たち」の及ぶ範囲しか描かれず、「他の誰か」はその存在すら許されていない。これが特徴と人気の要因のひとつなので文句はないですし、そのことをガタガタ言っても埒が明かない。本編を見ている視聴者は、さしずめ透明人間にでもなって彼女たちにばれない様に「日常」を覗き見させてもらっているような状況にあるわけです。時折描かれる、やたらフェティッシュなカットは我々の煩悩の現れみたいなものなのでしょう。
そんな徹底した作りこみがなされている作品だからこそ、違和感を覚える場面があります。それが、OPのグルグルです。「あれはいったい誰が撮っているんだ?」まずは、それについて考えて見ましょう。


以下、この文章を読むときは、あなたの中の気持ち悪い部分を想像しうる限りMAXにしてお読みください。大丈夫!誰も見てませんよ。自分は気持ち悪くないと仰る方は、文章の後に「(笑)」を付けて読んでくださいね。


まず1期のOPをおさらいしておきましょう。
1期にはOPが2種類(梓いる/いない)ありますが、完成型と思われる9話以降(5人ver.)で検証します。注目していただきたいのは、全員が目線をカメラに向けているシーンです。

全員登場するが目線がこちらを向いてないシーン(写真を撮る・部室で駄弁る・海で遊ぶ・川の飛び石・自転車・踏み切り・走る)はあなたが覗き見したシーンです。
目線がカメラに向いているシーンでも、キャラクターが個々に登場する場面は、他のメンバーに向けたor撮ったと考えられますから無視していいでしょう。
全員が登場し目線がカメラを向いているのは、演奏しているシーン(部室・正門前)と、レンガの建物でポーズをとるシーン(梓はいませんが、変更前から継続で使われたカットなのでこの場合は4人)の箇所になるでしょうか。しかし、これらのシーンはずっと同じ構図。つまり固定カメラで撮ったと考えられますから、撮影者が不在でもなんら問題ないでしょう。つまり、1期のOPには「私たち」しかいないと考えられる訳です。


続いて、2期のOPです。
忘れないように言っておきますが、あなたの中の気持ち悪さを全開にしてご覧ください。

これも1期と同じで、目線が向いてないシーンはあなたが覗き見したもの。目線が向いているが、個々に映っているシーンは他の部員に向けたor撮ったと場面と考えられるので問題ありません。
2期でも「私たち」以外の存在が排除されている好例として挙げられるのが、『制作 京都アニメーション』の辺りの梓と憂・純のシーンです。これ微妙に背景がずれてますよね。つまり、「これ交代で順番に撮ったシーンなんじゃね?この後、憂と純で撮るんでしょ?」みたいな事が容易に想像できる作りになっているわけです。他にも個々の演奏のシーンでは、後ろに譜面台があったりで流れとは別に撮影されたと思わせるような仕掛けがされています。これだけ徹底されているにも関わらず、謎の撮影者、つまり「他の誰か」の存在を想起させる場面があります。それがグルグルです。
5人全員が映っていて視線を向ける場面は、カメラのフレームに収まっている箇所(写真撮影なのでここは無視できます)を除けば、グルグルのところだけです。1期の演奏シーンは固定カメラによるものでしたが、2期は動く。しかも高速で円を描いて。
ああいったシーンを撮影するには、レールを敷いてリモコンか何かでカメラをグルグル廻すか、人が高速で正確な円を描きながら走って撮影する必要がある。
「レール説」なら紬がいるのでレールを準備できないことはないかもしれない。「走って撮影説」も憂あたりなら「お姉ちゃーん!」とか言いながら正確に高速で走り回れそうな気もする。「トンちゃんの背中にカメラ説」も考えたのですが、高さが足りないし、そもそもOPには水槽が映ってないので違う。一見紬がレールを用意したのも、憂が走って撮ったのも行けそうなのですが、「私たち」しかいない世界であれを撮影しようとすると、どうしても障害になるものがある。


オルガンが邪魔になるんです。


あの位置にオルガンがあると、レールならカメラがガシガシぶつかって画面がブレる。憂なら腰がガンガンぶつかる。本編で憂が腰痛に悩まされている描写はありませんから、どっちも厳しい。しかし、「私たち」しかいない世界で、無理なくあの映像を撮れる唯一の人物がいる。


「あなた」です。


あなたはあの世界でその実体を持たないものの、覗き見することが許されている存在です。実体がないのだからオルガンの位置なんて問題ないはずです。
つまり、あのグルグルの場面はあなたの思念が軽音楽部のメンバーの周りをクルクル廻って撮ってくれ、私たちに見せてくれた映像なのです。

ありがとう。そして、おめでとう。あなたの思いは二次元に届きましたよ。あなたの姿を彼女たちは見ることが出来ないかもしれませんが、その存在には気づいているようです。その現われが、あなたへ向けた視線と笑顔なのです。おめでとう。本当におめでとう。


もう気持ち悪さのボリュームは正常値に戻して大丈夫です。お疲れ様でした。
排除が徹底されている作品だからこそ、誰が撮ってるか分からないグルグル映像にキャラクターが視線と笑顔を向けることにどうも違和感があったので、以前このブログでも書いた「けいおん!!」が視聴者の事をかなり意識して作られているという持論でもって、視聴者が覗き見していることにキャラクターが気づいている・バレているという風に飛躍させてみましたが如何だったでしょうか。

あと1ヶ月くらいでOPは新しいものに変わるんでしょうか?よく分かりませんが、新OPになった場合、それは誰が撮影したものなのかを意識して考えてみるのも楽しそうですね。



続いての冗談は、テロップが入る時間について。
ここで言うテロップは「最近インターネット上での〜」の文言で始まるものです。
大抵の場合はアバンパートかAパートの冒頭で流れるもののように思いますが、「けいおん!!」では流れる時間が実にバラバラ。「他のアニメも流れる時間はバラバラじゃね?」という意見は無視して先に進めます。

OP終わりのCM明け(Aパート開始)を基準にして、何秒後にテロップが流れたかを各話毎に書き出します。

  • #01 1:25
  • #02 0:05
  • #03 1:38
  • #04 1:32
  • #05 1:53
  • #06 1:48
  • #07 4:13
  • #08 4:59
  • #09 0:49(単位は全て「秒後」)

大雑把に計算してるので誤差はあるでしょうが、バラバラなのはお分かりいただけると思います。
テロップの先頭が画面に入って、文末が流れきるまで約25秒あるのですが、その間、画面では何が描かれていたかを適当に書き出します。

  • #01 部室からクラス発表へ向かう3年生の4人・分け目を逆にした唯
  • #02 「大掃除をします」の澪アップ・唯と律が肩を組んで「掃除が嫌いだー!」
  • #03 ギターを持った律・ギー太が浮気したと泣く唯
  • #04 新幹線車内で、澪が和に助けを求める
  • #05 純がパンでバッティングポーズ
  • #06 唯の足湯
  • #07 回想、澪が曽我部先輩にときめく
  • #08 ロリ唯がクレヨン舐めようとする
  • #09 授業中寝てる唯・律にほっぺたふにふにされる唯

これらの場面って、結構「おいしい場面」ですよね。所謂、MAD動画の素材に使いやすそうな。
このテロップは映像データに埋め込まれた情報なので、完璧に消すのはほぼ不可能なはずです。下だけカットしたり、モザイクをかけたりも出来るでしょうが多分面倒くさいですよね。
つまり、このテロップが流れる場面は「そっとしておいてほしい」場面なんじゃないかと思うわけです。流さなきゃいけないテロップをただ流すのではなく、作品にプラスに作用するような使い方をしているんじゃなかろうかと。
「あれは販促の為の制作による陰謀だ!」みたいな奇特な意見の方を除いて、あのテロップが流れるシーンは制作サイドの「ここは触らんといてほしい」というメッセージだという電波を受信してみるのも、なかなかオツなもんじゃないかと思います。


1期では「私たち」しか描かれず、しかも挿話毎に話をカットして上に順に重ねていった結果としてラストのライブが描かれた、しかし、ただ上に積み上げているだけだから「物語がない」という意見が出たという感じでしたが、2期では「他の誰か(但し、嫁を奪う敵ではないこと)」の存在が段々と許されるようになってきました。それが、曽我部先輩や隣のおばあちゃん、はたまた進路のような外部世界とのパイプの役割を担う人物や事柄です。これらが巧く配置されていることで挿話が分断された積み上げ型ではなく、繋がりを持った横並びの一連の流れとして描かれるようになった。その結果、そこに物語が生じる余地が生まれたという印象です。これに加え、覗き見している我々の存在に配慮しつつも、守るべきところは守る作品作りがされている以上、「けいおん!!」の人気は揺るがないでしょう。視聴者に新たな嫁が生まれない限りは。

「Angel Beats!」弔鐘の音が響くとき

はじめに

本稿は『「Angel Beats!」人生を追体験する音無の成長が物語を繋ぐ』の続編である。
この投稿は『音無の成長は人の乳児期〜老年期への過程と似ている。作中に登場するkeyコーヒーは音無の心境の変化、とりわけゆりとの関係を象徴している。6話でkeyコーヒーを投げ捨てた彼は自分の考えで歩き始めた。それが、ゆり・天使・直井のステージを繋ぐ役割を果たし物語が動き始めた。人の一生を音無の成長とダブらせることで「Angel Beats!」は人生賛歌を描こうとしているのだろうか。』ということをエリクソンの発達課題を参照にすることで物語(1〜6話)を振り返ったものだ。
今回もこれを踏まえて、7〜9話までを加えて検証していくことで今後の展望へと繋げたい。
尚、本稿が筆者による物語の恣意的な捏造に基づくものであることを理解した上でご一読いただければ幸いである。

各話を振り返って

では、おさらいの意味も兼ねて、今一度音無の成長を振り返る。尚、前回と微妙に差異が生じる箇所もあるだろうが、物語が展開したことによる修正なのでこちらを優先していただきたい。
※天使・立華奏の呼称は作中で音無の使ったものに準拠させています。

エリクソンの提唱する発達課題の各段階とその心理的側面

1.乳児期(基本的信頼 対 不信)
2.児童期(自律性 対 恥・疑惑)
3.遊戯期(積極性 対 罪悪感)
4.学童期(勤勉 対 劣等感)
5.青年期(自我同一性 対 役割の分散)
6.壮年期(親密さ 対 孤立)
7.中年期(生殖性 対 自己没頭)
8.老年期(統合性 対 絶望)

#01・02[乳児期]―「基本的信頼」と『大まかな世界観・概念を確立』
  • 主な出来事:死後の世界へ・天使に刺される・SSS入隊/ギルド降下作戦・ゆりと共に天使と交戦・ゆりへの信頼

記憶喪失で突然謎の世界に放り込まれた音無は自分が何者なのか、また世界について何も知らず何を信用していいのかも分からない。判断基準を持たないまっさらな姿は、さながら赤ん坊のような状態にあると言えるだろう。
この段階における重要な対人関係は、「母親的な人物」である。当然この場合においては、世界で始めて出会った人物で今後信頼を置くことになる「ゆり」がそれにあたると言えるだろう。記憶の無い自分を受け入れ、SSSでリーダーシップを如何なく発揮する彼女の姿を見ることで、音無は基本的信頼を獲得することになる。加えて、死の概念の効かない(死んでも生き返る)世界を身をもって経験し、ギルド降下作戦でも仲間のそうした姿を見ることで「この世界のルール」を、自分を受け入れたSSSと攻撃した天使から鑑みて「天使は敵である」という認識を持った。




#03[児童期]―「自律的な考え」と『世界への適応、そこで生きるうえで必要となる概念(成仏条件)の形成』
  • 主な出来事:岩沢の成仏・keyコーヒーの印象的な演出

この段階で発達の成功を得るために関わってくるのは、本来であれば排泄行為である。上手く排泄できれば親に褒められ、失敗すれば恥ずかしい思いをする。勿論、肉体的には既に完成された年齢なのでこの場合そのまま当てはめることはできない。心的な成長を発達段階と照らし合わせている本稿では、それを「記憶喪失である事実を他人に打ち明けられるか」に対応させて検証する。
皆が人生の理不尽を呪い、それを受け入れることに抗おうとしている死後の世界において、記憶のない音無は神に抗う正当な理由をもたない。つまりそれを吐露することは、共に戦う正当性を否定されるかもしれないリスクの孕んだ行為であり、大っぴらに公言するかひた隠しにするのかは自身で上手くコントロールする必要があるので、排泄と記憶喪失であることを話すのは≒で結ぶことが出来るだろう。
記憶喪失であることを1・2話で主にコミュニケーションを図ったゆりと日向は、それを理由に音無を批難するわけではなかったし、この時点で敵側である天使にすらも記憶喪失はよくある事だと言われた。要は、これまで記憶喪失である自分が恥ずかしいことだと意識する必要性は無かった訳だが、世界を拡げていく上では必ずしもそう言いきれるのかは分からなかった。ここで音無の成長に寄与したのが、それまで自己紹介程度で直接関わりの無かった岩沢との会話であろう。彼女は記憶が無いことを「そりゃ幸せだ」と言ったり「記憶ナシ男」と呼んだりで微塵も気にする様子を見せない。
近しい人物だけでなく、初めて関わる人物にも記憶喪失であることを咎められなかった音無は、それを「ひけらかすのか/内に抱え込むのか」を協調させ、死後の世界での自律的な意思を身につけていったと言えるだろう。その結果がラストカット、岩沢の成仏を受けその条件について自分で考え始めた描写に象徴されたと言える。
この時期は第一次反抗期の頃でもあり、音無が持ち始めた自律的な考えとそれを対応させることも出来るだろう。




#04[遊戯期]―「積極的な行動」と『人とうまく付き合う学習』
  • 主な出来事:ユイのガルデモ加入・日向成仏の危機

この段階の心理的社会的様式は「思い通りにすること」。そこで主張する積極性と、そうすると罰せられるかもしれないという罪悪感のどちらが強化されるかが問われるのだろう。
「お前消えるのか?」「俺はお前に消えてほしくない」の発言は、積極的な自己主張だと考えられるだろうから、この段階で積極性を獲得した音無がその後、天使や直井と積極的に関わっていく(それぞれのステージを繋ぐ)ことになるは至極当然の結果だったといえるだろう。ここでもし日向に「消えるな?お前は記憶が無いからそんなこと言えるんだ。」などと咎められてしまえば、自虐的な性格になる可能性もあっただろう。
この4話は、成仏の危機も神に抗う理由も無い音無がそれに囚われるのではなく、自身の記憶が無いことを受け入れ死後の世界で獲得してきた格率に従い積極的に行動し始めている様子が伺い知れ、野球(チームスポーツ)を通じSSSに必要とされていることを認識していった過程を描いた挿話だったのだろう。




#05・06[学童期]―「勤勉さ生産性の獲得」と『自我の芽生え』
  • 主な出来事:テスト妨害と天使の失墜・交戦を伴わない天使との会話/keyコーヒーを投げる・天使との交流・幽閉・直井の乱と彼を認める抱擁

5話は周囲の承認や目的を一緒に達成する経験を経て、新入りであることや記憶が無いことに打ちひしがれず(劣等感)、必要とされている今の自分でSSSの一員として行動する(勤勉・生産性)を獲得していった段階。また、屋上でのkeyコーヒーを持ってはいるが飲まない描写や、「こんなこと続けて何か変わるんだろうか」というモノローグ、天使との会話や存在に対する自律的な考えは、この時期が『個人的独立の段階的の達成』・『母子分離』・『社会に対する態度の変化の発達』・『第二次反抗期』の時期などと重なることを考えても、学童期という発達段階と符合する部分が多いと考えていいだろう。前回の投稿で、音無が(ゆり=握手・天使=手を繋ぐ・直井=抱擁)をすることでそれぞれのステージが並列化されたことは言及した。改めて見てみると、音無と天使との交流は自律的な考えよりも反抗期的な衝動に基づいた行動だったという側面で捉えることも出来るのかもしれない。
とにかく、立場や振る舞いではなく個としての存在を認めた上での天使との交流や、直井を認め(許し)た一連の流れは、記憶が無いという弱みを持った自分を快く受け入れてくれたSSSと、その上で順調に成長した自身の経験を踏まえれば彼にとって当たり前の行動であったと言えるだろう。





#06B・07A[青年期]―「自我の確立」と『ゆりとの新たな関係性』
  • 主な出来事:直井の乱と彼を認める抱擁/記憶を一部取り戻す・自身の過去を知り動揺する

学童期での行動とした天使や直井との一件は、自己の世界観を持ち他人と調和しつつ自分の価値体系を作り、行動の指針としての価値や論理を学ぶ青年期における行動とも符合する部分がある。6話は学童期から青年期への移行期間であるとするのが分かりやすいだろうか。
さて、7話で音無は直井の超能力により記憶の一部を取り戻すことになる。青年期で重要となるのは、『自己の生まれ育った環境や社会が提供する価値や規範、行為などから自分の自我同一性に適うものを意識的に再選択し体系化すること。また、この選択と無意識的に獲得していた同一性をいかに統合するか』ということである。「前者(意識的な選択)=死後の世界での自分」、「後者(無意識下)=生前の自分」に対応させるのが自然だろう。つまり、

    • 意識的な選択

・記憶が無くとも様々な経験を経て成長した自分
・ゆりと共に行動した自分
・自分が受け入れられたように、立華奏を受け入れたいと考える自分

    • 無意識に獲得したもの

・自身の理不尽な人生


を、自分の中で決着を付け今後どのように振舞うべきかの選択。つまり、どの様なアイデンティティを確立していくのかの決断が迫られていたのである。この選択に対する猶予期間(モラトリアム)が、ゆりの居る屋上に行くまで一人にしてもらった時間だったと言える。
皆と同じように理不尽な人生を呪い、立花奏を敵と再び捉える可能性も十分あっただろうが、音無は生前の記憶と死後の世界での自身の成長に上手く折り合いをつけ行動していくことを選択する。つまり、神に抗おうというゆりの考えには賛同するが盲目的に信頼するのではなく、自身の成長の結果として培われたもの、とりわけ立華奏とも共に行動していきたいという意思は持ち続ける選択をした。それが彼のアイデンティティ、価値観として確立されたということなのだろう。
母親的な存在であるゆりから情緒的に独立し、互いを異なる個として認めた上で共に行動していくことを象徴する場面として、ゆりから受け取ったkeyコーヒーを思慮深く眺めた後に飲むという描写がなされている。それぞれの立場を踏まえた上での関係構築や、独自の価値観、倫理観の形成は、音無とゆりの関係が所謂「大人の関係」として次の段階に進んでいくことを示している。




#07B・08[壮年期]―『「奏との親密な関係」』
  • 主な出来事:立華を釣りに連れて来る・分裂した天使の誕生と反乱/再びギルドへ・攻撃性の強化された分体の意思が奏に吸収される

keyコーヒーを飲み、ゆりと共に行動することを決意した音無が、釣りに立華を連れてきた所を見ても彼の自我が見て取れるだろう。
この壮年期では、「自己のアイデンティティに裏付けられた友情・愛・性的親密さを得るか否か」が重要になる。つまり、心身の一体感を感じ、異性と仲良くなる期間である。配偶者の選択もこの時期に行われる。「下の名前で呼んでもいいか?」「これからはみんなと一緒に居てほしい」など積極的に関わっていることからも分かることように、この場合は奏がそれにあたるだろう。記憶がなかった頃の自分の気持ちと、天使の役目を負いいつもひとりで居る奏の姿にどこか共感する部分があったのかもしれない。




#09〜[中年期]―「次世代を育むこと」と『奏との信頼関係の構築と密約がもたらすもの』
  • 主な出来事:残りの記憶を取り戻す・報われた気持ちを皆に知ってもらうために奏と協力・奏生徒会長に復帰

音無が残りの記憶を突然取り戻したのには違和感を覚えたが、今振り返れば3話で岩沢から受け取ったミネラルウォーターBolvicを飲まなかった(飲めなかった)のは、Bolvicが事故現場で一波乱生んでいたことに対する無意識下での逡巡であり、たとえ直井の超能力に頼らずとも自力で記憶を思い出す可能性のあることが、あの時点で暗に示唆されていたのかもしれない。ちなみに3話・9話は共にあおきえい氏が絵コンテを担当している。





とかく、記憶を取り戻し奏と密約を交わした音無は、中年期の段階に突入したと考えるのが妥当だろう。中年期には、「生殖性」(=次の世代を育むこと)と「自己没頭」(=自分にしか興味がない)が対立する。この「生殖性」(=次の世代を育むこと)は、作中においては皆を満足いく形で成仏させ新たな命として現世に転生させることに対応するだろう。音無がこうした広義の天使の役割を担う可能性は、7話までを振り返った投稿でも呈示したものだ。






しかし、真実を隠蔽したまま「報われた気持ちを皆にも知ってもらう為に行動していく」という音無の決意は、あまりに独善的なものだろう。事実これまでもそうしてこなかったから事体が迷走を極めたのだし、真実を秘匿されたまま成仏をむかえるのはSSSの面々にとって、それこそあまりに理不尽な出来事だろう。この独りよがりの行動が「自己没頭」と対応するだろう。音無に真実が明かされた今、それを隠されたまま成仏を迎えるのは本当の意味での成仏とは違うはずだからだ。つまり、彼はこの利己的な矛盾した考えを正す必要がある。
事実と違う箇所があったかもしれないが、世界について自分なりに考えていたゆりはこの変化に気が付くはずだ。ゆり・奏・直井のステージを繋ぐ役割を担った音無が、それによって引き起こった事体によってゆりと対立することになるだろう。『生きて行く上で必要なものは揃っているが、ゆりの考えで成仏を禁じられた閉じた世界』に、列車事故とトンネルの陥落で水も食料もない出口の無い場所』で死を迎えた音無は、強烈な既視感と嫌悪感を抱くだろう。出口を塞いだ巨大な岩石とゆりを重ね合わせ、力ずくでもそこを突破しようとするかもしれない。ゆりの方も音無をSSSから追放しようとするかもしれないし、彼の意見に耳を貸さないことも考えられる。
この音無とゆりの対立は、今や天使としての奏を裏でコントロールする「神の如き存在となった音無」と、「神に抗おうとするゆり」の思いが衝突するという、これまで暗示的にしか描かれて来なかった「神vsゆり」の構図が具現化された、物語の根幹をなす非常に重要な要素になると言える。


音無の独りよがりな行動の暴走を抑え、悔い改めさせることになるのが初音の存在になるだろう。音無は生前、病床の初音を真冬の外に連れ出すというその身勝手な行為により失った。これは、「自分がそうしてあげたいから」という独善的な理由でSSSメンバーを成仏させようとしている現状と完全に合致するものだ。自身の責任で妹を失った生前の後悔と、そこから生きる意味を見出した過去を持ち、記憶を失っていながらも死後の世界で立派に成長してきた音無は「自分がまた同じことをしようとしている」ことの愚かしさに気が付くことが出来るはずだし、その必要性があるだろう。それによって真の意味でゆりと奏のステージが繋がれ、物語がいよいよ終わりに向かうことになる。

#??[老年期]

老年期には、「自分自身の人生を自己の責任として受け入れることが出来るか」が問われることになる。これは、死後の世界における成仏の条件そのものであろう。生前、ドナーカードに署名し生きた証を残そうとした音無は、死後の世界では何を残そうとするのだろうか。
彼は一体どんな選択をするのだろう。幸せなものとして死後の世界での一生を終えることが出来るだろうか。たとえそれが奏との別れを意味することになるとしても。

終わりに

「ひとりで生きることを決めた少女」と「ひとりで生きるしかなかった少女」それぞれの物語が神によって繋がれることで、その終焉を迎えることになるのかもしれない。

『けいおん!!』の「お茶会!」に参加したら、知らぬ間にを予防接種を受けさせられていた。

けいおん!!』7話「お茶会!」は今までと若干毛色が違うという印象を残しながらも、視聴者に今後に対する予防接種を受けさせるという点において、後々のストーリー全体への意味を孕んだ重要な回だったと言えるのではないでしょうか。

5話までを振り返った以前の投稿で、『けいおん!!』では「キャラクター性の放棄」によって自身の内部に抱える問題を強みにまで昇華したみたいな事を書きましたが、これは6話での律のボタン付けや、さわ子の教師らしい振る舞いなんかでも感じられることでした。
さわ子の教師らしい振る舞いに関しては、ボーナスの査定でも近いんじゃないか程度に思ってたのですが、6・7・8話の流れを考えると、なるほど意味のある行動だったんだということが分かってきます。さらに、梓が会ったことのない曽我部先輩の為に写メを撮るという行為も、今後の展開において実に意味のある行動として機能している、みたいな私見を以下に書いていきます。


作品内で目下の主題となるのが唯たち3年生の進路問題。いよいよ8話は「進路!」、進路希望調査表を提出することになるんだと思います。原作では綺麗に纏めて後に引きずった印象はないものの、アニメではどうなるか分かりません。進路=シリアスという発想も如何なものかと思いますが、リアル中高生にとっては現実問題とリンクするし、作品の終わりが感じられてしまうので感傷的な気分になってしまう人がいるのも仕方ないのかなと思います。しかし、今後作品を進める上で避けて通れない進路問題を自然に受け入れさせるための予防注射は作品内で既に行われています。

  • 予防注射その1:さわ子の場合

まず#06「梅雨!」。この挿話でさわ子は「シャツ入れなさい!」の様な、いかにも教師らしい振る舞いを見せます。これは8話かそれ以降の進路相談の際に、突然教師として振舞われても唐突すぎて効果が薄い「イヤイヤ。さわちゃんも一緒にお茶してただけじゃん!」という視聴者の反応を巧くかわす為に描かれたという印象です。朝礼で「修学旅行も無事終わりましたし、これからは受験モードに切り替えていきましょう。」的な発言が学年主任からあって、修学旅行の惨状を知っているメガネのオバちゃん教師に「山中先生もしっかりね。」みたいな小言を言われたんだろうと想像出来るでしょう。しかし、7話ではお茶会に特に口を出すこともなく傍らで見守るいつものさわ子として描かれました。7話でも教師らしい振る舞いを見せる訳でもなく、はたまた挿話に全く登場しないのでもなくただ見てる。これが実に効果的で、

    • #06:教師らしい振る舞い「服装注意」 → #07:いつものさわ子「見守る」 → #08:教師らしい振る舞い「進路指導」(予定)

とキャラとしての役割を連続させない(全部教師の役目ではありますが、方向性が微妙に異なる)事でさわ子を「口うるさい嫌われ者」にすることなく、教師として振舞うことを自然に受け入れさせる為の予防注射を6話と7話で施したと言ったところでしょうか。



  • 予防注射その2:梓の場合

進路問題は必ずしも3年生だけの問題ではありません。軽音部唯一の2年生梓も彼女らが卒業してしまえば軽音部で1人になってしまうからです。新入部員を迎えたり、憂・純で新生軽音部を結成となれば当面の問題は解決できるかもしれませんが、それでは根本的な解決にはならないでしょう。あくまで、あの5人だから「けいおん!」であって〜(以下割愛、ご自身で補完してください)。とにかく、卒業する4人と残される梓という構図(不安)を感じさせることなく終わらせなければならない、というのが梓周辺の問題になるでしょう。この予防注射として描かれたのが曽我部先輩と梓の撮った写メです。
まず曽我部先輩の話。ファンクラブの初代会長である曽我部先輩は、お茶会に来ることは叶わなかったものの高校時代に好きだった澪のことは今でも気になっている(変な意味ではなく、いや変な意味でか?)ようでした。自身のちょっと痛い思い出を黒歴史にすることなく、環境や容姿は変化しても楽しかった高校時代の記憶はそのまま心の中に今もある、つまり卒業しても変わらないことを印象付ける為の予防注射といえるでしょう。
続いて梓の撮った写メの話。アニメでは2学年上(たぶん)で登場した曽我部先輩を梓は直接知りません。周囲の思い出話の中に登場する姿を想像するしかないわけです。ひょっとしたら、お茶会に参加出来ない曽我部先輩の澪への熱は実はもう冷めているのかもしれない。それでも梓はアドレスを調べてでも写メを送ってくれと、半ば強引に和に迫ります。この姿は、前回の『キャラクター性の意図的なずらし(梓の場合は「クール」→「子供っぽさ」)』を想起させると共に、梓は思い出は色褪せることがないと信じている、要は梓が軽音部を楽しい場所だと感じ、その思いはどんなことがあっても決して変わることがないと感じている事の表れとしても機能しているでしょう。
つまり、梓の軽音部への帰属意識もはっきりさせると同時に、たとえ4人から残される立場であってもそれは些末な問題に過ぎず、立場や環境、距離が変わっても5人の絆は決して変わらないことを印象付けるための予防注射として曽我部先輩と梓の写メは描かれたのだと言えるでしょう。誤解が生まれがちな梓のキャラクター性を考えると、彼女の扱いは本当に丁寧にされているという印象です。



  • 予防注射その3:唯の場合

5話、修学旅行での「もう3年生かぁ」発言は原作では律のものとして書かれたと記憶していましたが、アニメでは唯のものとして描かれました。次回予告を見る限り、進路問題は唯に視点を置いて描かれることになりそうなのでこのような改変が行われたのでしょう。今思えば、唯も今後について何も考えていない訳ではないよという為の予防注射だったのかもしれません。




まぁ、予防注射って有り体に言ってしまえばみんな大好きな伏線です。敢えて予防注射という表現にしたのは、ネガティブな反応を100%予防できるものではないと感じたからです。終盤でこの挿話のことを思い出す人も居れば、終わることに過剰に反応するひともいるでしょうから…。
とにかく、どうしても描かなくてはいけない進路の話を、当人(唯)も自覚しているし、さわ子も突然その挿話で教師面するわけではない。残される梓にあっても変な誤解や憶測を生まないよう事前に準備しておくという点において、7話への流れはそれ単体のみならず今後の展開と絡めることで意味を持つ非常に重要な回だったと言えるでしょう。挿話が自然に受け入れられる為の土台作りが作品全体を通してなされているという印象です。
挿話毎に「この話は好き・微妙・嫌い」みたいな意見を持ってしまいがちですが、作品全体の流れとして各挿話を捉えてみると、この作品がいかに丁寧に作り上げられ、それが人気の要因に繋がっているのかが分かったような気になれるのでお薦めです。


当初は「けいおん!!」#07「お茶会!」は、(澪=『けいおん!!』):(他の軽音部メンバー+和・さわ子=制・製作陣):(ファンクラブ=視聴者)が対応したメタ構造が落とし込まれた挿話でであり、なんたらかんたら…なんて事を書こうかと思いましたが、考えてるうちにどうでもよくなってしまったので却下。多分「メタ構造」って単語を使ってみたかっただけの発作だったと思います。とは言え、ファンクラブ会員の目線や行動を自分らに当てはめて見ると、なかなか申し訳ない気持ちになると思うので、妙な気分になりたい方はそんな目線で見てみるのも加えてお薦めです。

「Angel Beats!」都合のいい展開 全てはゆりのため?

Angel Beats!」7話を受けての感想。前回のkeyコーヒーの解釈と、あまりに都合のいい展開についての話です。

やはりkeyコーヒーはゆりの世界観を受け入れることの象徴なのか

keyコーヒーの解釈は、どうやら7話でも応用できそうです。






屋上でゆりから手渡された缶コーヒーを思慮深く眺め、

音無「俺は弱いな。お前の強さが改めて分かった。」
ゆり「そんなことないわ…。それで何か変わった?」「気持ちよ。これからも戦線に居続けるの?」
音無「居続けるよ。このままじゃ死に切れねえし。」
ゆり「そう。あなたにも目的が生まれたって訳ね。」
音無「改めてよろしく。」

のやりとりの後に缶コーヒーを飲むので、生前の記憶を取り戻した音無が自身の人生を「やりきれない」と感じ、一度は捨てた「ゆりのステージ」に改めて戻ってきたという感じでしょうか。keyコーヒーの扱いは今後も注目してみてもいいかもしれませんね。

あまりに都合のいい展開は誰のため?

さて、ここからがこの投稿の本題。このアニメを見ていて多くの方が感じているのが「都合のいい展開が多すぎる」というものだと思います。私もその一人です。

では、都合のいい展開は一体誰の為に用意されたものなのか(制作陣という回答はここではナシで)。この都合のいい展開は誰に恩恵をもたらしているかを考えると、それはゆりにとってでは?と思えるわけです。

  • SSSのメンバー
    • 彼女の手となり足となり動いてくれる。
  • メンバーが不足している
    • 音無がSSSに加わり、当初は疑いがあったもののギルド降下作戦などを経ることにより彼女への信頼を深める。
  • 天使のPCから情報を盗み出したい
    • 竹山(クライストとお呼びください)が戦線の主要メンバーに加わる。
  • 武器を持たず反乱を起こした場合、天使がどう動くか検証したい
    • 天使の登場。
  • 天使を陥れるためにテストで赤点を取らせ、その名誉を失墜させると共に変化を起こしたい
    • 天使が生徒会長の座を追われる。
  • 記憶喪失である音無の成長と自律的な考えからの決別
    • 直井をSSSに引き入れるのに一役買う。
  • 仲間に加わった直井
    • 超能力の持ち主で、音無の記憶を取り戻させる。
  • 記憶を取り戻した音無
    • 自身の人生を「やりきれない」と感じ、改めてゆりと行動することを決意。

ざっと書き出すだけでも、実にゆりにとって都合のいい展開が用意されているのが分かると思います。ひょっとしたらここに、陽動に向かないバラードを新曲として持ってきた岩沢の成仏を加えてもいいのかもしれません。


7話で印象的な場面があったので参照してみましょう。





音無が連れてきた天使が川の主を釣り上げる場面です。SSSのメンバーはもう必死で、天使とかどうでもよくなっちゃってますね。
その直前のゆりのカットです。意味深な顔をしてます。「は?お前らなに天使の味方してんの。」と言わんばかりです。
で、(分身の?)天使にやられちゃう訳です。


もしかして、ゆりの自作自演か実は凄いかまってちゃんなんじゃなかろうか、そんな事すら感じさせる流れですよね。かまってちゃんは冗談にしても、上記した「ゆりにとって都合のいい展開」を考えてみると、ここから連想し得るのが「死後の世界=ゆりの思い通りにいく世界」なんじゃないだろうかというものです。しかし、それが彼女の力によるものなのか、はたまた偶然なのか現時点では判断できません。その可能性をちょっと視点を変えて検証してみましょう。参照するのは、死後の世界でそれぞれが発揮している力です。

  • 岩沢:声を失う → 歌で人を集める
  • 日向:凡フライを落球しチームに迷惑をかける → 新入りの音無を快く受け入れる
  • 直井:自己暗示 → 他人に催眠術をかける

絶対的な数が少ないのでなんとも判断しづらいところではありますが、どうも生前自分にかけられていた制約(=人生の未練)が、死後の世界での他人への影響力と対応しているような気がしてきます。つまり、

  • 「自分」自身の人生への未練 → 死後の世界での「他人」への影響力

のように対応しているかのように捉えることが出来るのではないか、ということです。事実、生前の未練に囚われた人々の集まりなので、無意識的に他人にそう振舞ってしまうのかもしれませんが。ただ、それに拘るあまりその影響力に満足してしまうと岩沢の様に成仏してしまうので、力についてはある程度無自覚であるのが理想的な状況なのでしょう。
では、そう仮定してゆりの場合を考えて見ましょう。

  • ゆり:人(この場合強盗)が望んでいるものを持っていけなかった → 他人が自分の思うように動いてくれる

妹弟を強盗に殺害された過去が、その後も彼女の人生を制約したのかは現時点で判断が付きませんが、どうやら公式に当てはめることが出来そうです。何となく「死後の世界=ゆりの思い通りにいく世界」が行けそうな気がしますね。という訳でここでは、物語の都合のいい展開は、死後の世界がゆりの思い通りになる世界だからという事にしておきましょう。


そんな思い通りに行く世界でもイレギュラーな存在がいます。音無天使です。
天使については謎が多すぎるし、超展開が起こっていて全てが憶測の域を出ないのでここでは触れません。天使について書いている方は沢山いらっしゃるでしょうから、そちらをご覧ください。少なくとも「どうやら天使はゆりの思い通りにならない人物らしい」ってことは皆さんも感じていることと思います。ひょっとしたら、ゆりのために用意された存在なのかもしれませんね。
問題は音無です。彼は屋上でkeyコーヒーを受け取って飲み、ゆりのステージで生きる決意を改めてしました。それこそ、過去に居たであろう記憶喪失者と同じで人生の理不尽さを呪って、ゆりと共に神に抗おうとしたわけです。彼が記憶喪失であるが故、あの世界で成長し獲得していった自律的な考えは直井を仲間に迎えるためにゆりに利用され、その直井の超能力で記憶を取り戻し疑問を捨て去ってゆりと共に行動する彼には主人公である特別性が無いのかと思われました。
しかし、音無にはちょっと違うところがあった。それが、釣りに天使を連れて来たという所です。今のところ、彼が主人公足りえる理由はその点位でしょうか。些細な事のように思われますが、死後の世界がゆりの思い通りにいく世界であると仮定するならこれは重大なイレギュラー要素ですよね。




では、音無が何故こんな行動をするのか、彼の死後の世界で発揮する力を考えることで検証してみましょう。
音無はただ病弱な妹のためだけにその人生を送っていました。妹の死によって生きる目的を失った彼は、退院する少女を目撃することで更正し、医者つまり他人の役に立つための人生を送ろうと決意し、その矢先に事故に遭い死んでしまう。つまり、

  • 決意した夢を叶えることが出来なかった → ???

になるでしょうか。
これを公式に当てはめると音無が死後の世界で持つ力は「他人の夢を叶えること」になるかと思われます。
しかし、どうでしょう。死後の世界で夢を叶えるというのは、生前の未練を果たすのと同義なはずです。つまり、彼が力を行使したなら相手は成仏することになってしまうのです。それこそ、まるで広義の天使の役割のようですよね。(完全に与太ですが、音無を演じている神谷さんはマクロスFでミハエルを演じ、ガンダム00でも天使の名を冠したモビルスーツに乗ってますね。)
もうひとつ可能性を挙げると、

  • 誰かの為に自分の命を費やしたい → ???

というのもあるかもしれません。この場合だと、死後の世界の力は「自分の為に誰かが命を賭してくれる」ってことになるんですかね。成仏の条件は、文字通り誰かの為に体を張るってことになるでしょうか。なんだか物語の結末が見えてきそうです。
前者が記憶を取り戻した直後のセリフで、後者は生前の音無の決意のモノローグです。どうも可能性としては前者の方が高そうですが、「人を成仏させる」か「自分が成仏する」かのどちらにせよこの辺りと、天使を連れて来るなど完全にゆりに従っているわけではない点、これが彼の主人公としての特別性といったところになるでしょうか。

今後に向けて

今後、無自覚であるにせよ自分の思い通りになる世界で「神」の如く振舞うゆりに音無と立華奏という二人の「天使」が歯向かい、ゆりが「世界が自分に都合よく動くように出来ている」ことに気が付くみたいな展開になると面白いですね。だとすれば、ここまでのあまりに都合のいい展開も何とか説明の付くものになると思います(でも、この設定どこかで見たことある気が…)。
いかにも凶悪そうな赤目の堕天使も登場しましたし、それも求心力を失ったゆりの為に用意され登場したとも捉えることができるんですが。そもそも、音無の記憶が本物なのかも分かりません。直井からのプレゼントなのかもしれないですし(あれ、これも…)。天使の役割も「ゆりの思い通りにいく世界」を前提にすれば自ずと分かってくるかと。
とにかく今後どんな展開になるかは全く分かりませんが。


思い通りに進まない作品に視聴後はやきもきさせられていますが、それぞれのスタンスや見方で楽しめる作品ではあるんだろうなと思います。現に、別に鍵っ子でも麻枝信者でもない自分も楽しめてますし。

私の目下の関心は「音無マジ天使!それとkeyコーヒー。」って感じです。


【追記】
この記事も、当然前回のエントリーを踏まえたものです。
音無がとるイレギュラーな行動は、彼があの世界で成長したからに他なりません。「獲得したものを捨て去った」が誤解を生むかなと思ったので補足です。
自分の過去を知り、それでもいいと自分自身を受け入れる様は、あの世界において「自我同一性」を獲得したとも言えるかもしれませんね。自分が自分であることを受け入れたといった所でしょうか。
「壮年期」に突入したと断言は出来ないですが、過去を受け入れた上でゆりと共に行動していくのを決断し、それでも自律的な判断で天使と親交を深めたりしていますので、順調に成長しているといえると思います。ゆりが経営するSSSに就職したって感じでしょうか。あまり独善的だと転職しちゃう可能性があるよ、という認識です。

「Angel Beats!」人生を追体験する音無の成長が物語を繋ぐ

はじめに

未だ多くの謎を残しながらも、大きく物語が動き出したアニメ「Angel Beats!」。これまで敵対する事でしか語られなかったそれぞれのストーリーが互いに絡み始めたのは、やはり主人公である音無の存在に拠るところが大きい。

  • 自身の理不尽な人生を呪い、神の遣いである(と思われている)天使に抵抗することで神をあぶり出し一発お見舞いしてやろうと考えているゆりとそれに倣うSSSのメンバー。
  • 死後の世界を「神を選ぶ世界」と捉え、悲惨な人生の記憶は神になる為の権利であり、天使に代わり生徒会長の座に就くことで自身が神になったのだと公言する直井文人
  • 自身の謎については未だ語られないものの、SSSからは神への足がかり、直井にしてみれば目の上のたんこぶ(抑止力)と解釈され、一方的に彼らの文脈に巻き込まれる状況を防衛(ガードスキル)することで抵抗する天使(立華奏)

つまり、ゆりらSSSは自らの目的(神をあぶり出す)のために天使を解釈し利用。直井は神になるという目的のために、目下の抑止力となっている天使を失墜させる手段としてSSSの行動を黙認することで利用(生徒会長代理の座に就いた途端、SSSを排除しようとしている事からもわかる)している。そして両者ともにNPCを自己解釈の文脈に当てはめ、目的のための手段として利用(SSSは陽動作戦・直井は超能力)している状況にあった。
彼らは皆一様に自身の文脈に従い、互いに相手を都合よく解釈(その状態をここでは「ステージ」と呼ぶ)し利用するだけで、そこには対話が生まれる余地さえなく、それぞれのステージはただ抗争によってのみ存在を確認する状況にあった。そんな状況を打破し、ゆり・直井・天使それぞれのステージを並列化することで、物語を展開するための下地を作り上げる役割を担ったのが、主人公である音無の成長である。
主人公なのだから当たり前だと言われればそれまでなのだが、今後の展開、また脚本である麻枝准がこのアニメで問いかけている問題意識を探る上でも、音無の役割を再確認しておく必要があるだろう。今回はそんな話。

  1. 音無の獲得したもの それぞれのステージを繋ぐ役割
    • エリクソンの発達課題で紐解く音無の成長と行動」「鍵となるkeyコーヒー」
      • 各話考察
      • 「自律性」を示すキーアイテムとしての「keyコーヒー」
    • まとめ
    • 今後の展望
  2. 音無の成長によって繋がれた、それぞれのステージ
    • 各話を振り返って
  3. おわりに

音無の獲得したもの それぞれのステージを繋ぐ役割

前記した通り、ゆり、直井、そして天使はそれぞれのステージ上から降りることなく、それぞれを都合よく解釈し利用していた。決して交わることのなかったそれぞれのステージを結びつける役割を担ったのが音無である。
音無には生前の記憶がない。自分が何者なのか、どんな理不尽な人生を送り、何故死んだのかさえ彼は覚えていない。謂わば音無は判断するための価値観に縛られた存在ではない。言うなれば、乾いたスポンジのようなに綺麗な水でも汚れた廃油でも吸収するしかない状態にある。現在放送された6話まで音無は未だ記憶を取り戻していない。それでも、ゆり・直井・天使のステージを繋ぐ、ないし三者を同じステージ上に立たせる事が出来たのは、皆が生前の記憶に縛られるこの世界において、記憶のない音無だけが自律的に判断するまでに成長したからに他ならない。つまり、彼はそれこそ無垢な子供が様々な経験を経て自己を獲得するかの如く、死後の世界で人の一生を追体験し、その成長こそが世界の変革の鍵をも担うという物語のプロセスが全編にわたり描かれている。
ここでは、それぞれのステージを再確認すると共に、人が健全な発達を遂げるのに必要とされる発達課題と照らし合わせることで、音無が今どの段階に居て、何故ストーリーが突然動き始めたのか。また、麻枝准の問題意識をカント的な二項対立の言説を借り、本編を振り返ることで今後の展望に繋げる。

ここで取り上げるカントの言説

動機(道徳性) 義務 対 傾向性
意思の決定(自由) 自律的 対 他律的
命法(理性) 定言命法 対 仮言明法

※言葉を借りることでその意識を感じ取ってもらう程度に取り上げるので、興味を持ったら自分でカントの著作を読んでみてください。

エリクソンの発達課題で紐解く音無の成長と行動」「鍵となるkeyコーヒー」

エリクソンの提唱する発達課題の各段階とその心理的側面

  1. 乳児期(基本的信頼 対 不信)
  2. 児童期(自律性 対 恥、疑惑)
  3. 遊戯期(積極性 対 罪悪感)
  4. 学童期(勤勉 対 劣等感)
  5. 青年期(自我同一性 対 役割の分散)
  6. 壮年期(親密さ 対 孤立)
  7. 中年期(生殖性 対 自己没頭)
  8. 老年期(統合性 対 絶望)
  • #01 Departure #02 Guild【音無:乳児期(基本的信頼 対 不信)】

1・2話の音無は「乳児期」の段階にあると言える。記憶喪失で突然謎の世界に放り込まれた彼は世界について何も知らず、何を信用していいのかも分からない。さながら赤ん坊のような状況にあると言えるだろう。
世界で初めて出会った人物であるゆりの、「天使は敵」という言葉を信用出来ず自らの判断で天使に近づくが、心臓を突き刺されることでそれを失敗と認めSSSの一員になる(=ゆりの文脈に則り他律的に意思の決定をする)ことを決めた。自律的な判断が出来ず、しかも、ゆりの忠告を無視し失敗を経験したことで、ゆりのバイアスがかかった世界観を受け入れ、それに守られる事を選択したのである。(「ゆり母親説」という意見を見かけた事もあるが、子供にとって母親は絶対的な信頼の存在であり、正しいかは差し置いて自己を形成するまでの価値観を強制(矯正)する存在でもあるとも言えるので、決して無理のある意見ではないことが分かる。)
2話のギルド降下作戦においても、ゆりと共に行動し統率力の高さを目の当たりをすることで、「乳児期」の発達課題の心理的側面の成功といわれる「基本的信頼」を獲得したと思われる。その証拠に2話最後は、「お前凄いよ。みんながついてくる訳だ。立派にリーダー出来てるよ。」という音無のモノローグで終わる。
勿論、「基本的信頼」を得たからといって、負の部分である「不信」が完全に無くなるわけではない。今後、信頼を獲得するのに大きな貢献を果たしたゆりの嘘(勘違い)が判明した場合、「不信」の部分が強化される可能性は大いに残されている。

  • #03 My Song #04Day Game【音無:幼児期[児童期・遊戯期](自律性・積極性 対 恥、疑惑・罪悪感)】

音無は、3話で仲間の岩沢が成仏する(仲間を失う)のを経験し、4話では親友であると思われる日向も居なくなってしまうかもしれない強烈な経験をすることになる。乱暴に要約してしまえば、「児童期」の特徴である「恥、疑惑」をその世界の不思議に向け、岩沢が成仏してしまうという経験から自分で判断する、すなわち「自律性」をもった考えを始め(3話)、岩沢を失ってしまった「罪悪感」から二度と同じ経験をしたくないという意味において「積極性」を得た(4話)と言えるだろう。(発達課題の心理的側面の負の部分をきっかけにし、正の部分強化している。)

    • 「自律性」の獲得、及び「積極性」が垣間見れる音無の言葉
      • 「ここに居る連中は神に抗おうとしているんだ。理不尽な人生を受け入れることに抗おうとしているんだ。」(3話Aパート終わり/岩沢との会話の後)
      • 「消える条件は天使の言いなりになって正しい学生生活を送る、それだけじゃなかったんだ。」(3話終わり/岩沢が成仏してしまったことを経験して)
      • 「お前消えるのか?」(4話終盤/日向に対して)
      • 「捕るな日向。俺はお前に消えてほしくない!」(同上)
  • #05 Favorite Flavor【音無:学童期(勤勉 対 劣等感)】

5話で突然、普通の学園生活(テスト)を描いたのも、「学童期」を印象付けた要因である。1話の最後に「俺には記憶がない」と音無自身が語ったように、彼はそのことに対し、強く「劣等感」を抱いているかもしれない。ただ、テストでわざと間違うなどゆりに言われたように行動しているし、その点では「勤勉」であるとも言える。
この段階において音無がどちらの心理的側面に強化されたのかを伺い知ることはできないが、ここで言う「勤勉」とは、「一生懸命励むこと」なので、4話の球技大会でピッチャーを務めたり、SSSのメンバーとしての役割を全うし自身を成長に導いている姿を見るにつけ、健全にこの時期を過ごしているように見える。ご存知のように、発達課題の心理的側面は、成功・失敗がどちらか一方に取捨されるわけではないので特に問題ないことなのかもしれない。
とにかく5話以降の音無は、天使と「積極的」に関わろうとしているし、彼女の存在をゆりの文脈ではなく「自律的」に考えようとしている。この自分で考え行動する姿は丁度「反抗期」を迎える子供のそれに似ている(学童期は丁度、小学生〜中学生位の年齢)。もちろん、ここでは「ゆりが母親だ」と言っているわけではなく、「彼女の文脈で世界を捉える必要があった」というこの世界における「母親的役割」としての話をしているので誤解が無いように補足しておく。ゆりは音無の自己形成期間においては、それこそ母親のような役割を負っていたかもしれないが、彼が持ち始めた「自律的」な考えに対し、例えば「今の天使なら俺たちの仲間になれるんじゃないか」という発言を否定しないばかりか、「個」としての可能性を見出しているといえるだろう(6話のトランシーバーを授ける場面に顕著:後述)。

  • #06 Family Affair【音無:青年期(自我同一性 対 役割の分散)】

青年期」は大体15〜25歳(近年では、〜35歳までとも言われている)。多くの人が人生の変革・転換期を迎える時期と言えるだろう。「マージナル=マン(境界人)」というレヴィンの言葉を一度は目にしたことがあるだろう。ゲーテによれば「疾風怒濤の時代」、ルソーに言わせれば「第二の誕生」と「個」の確立において物語が生まれやすい時期とも言える。
6話で音無は天使、そして直井に対しても心を開く。「敵らしい」という「傾向性」でなく、誰に対しても自己が意欲する善いと思われる行為、それこそカントの『義務論』を実践するかの如く振舞っているのだ。
さて、この「青年期」を迎えた音無が次に獲得しようとしているのが、上記したとおり「自我同一性」である。記憶を失っている彼が、これまでこの世界で健全に成長してきたこと、また結果としての有用性に重きを置く「功利主義」とは対にあるカント的な思想に基づいて行動してきた事実と、いずれ明かされる彼の本来の記憶との相違。この辺りが今後の展開における鍵となってくるだろう。

  • 「自律性」を示すキーアイテムとしての「keyコーヒー」

本編で音無がどのステージで生きているか、自律的な判断をする「自己」を獲得出来たのか、その象徴として描かれているのがkeyコーヒーだ。実に6話中4話に登場し印象的に扱われている。keyコーヒーが登場した1・3・5・6話を参照し上記したことをより分かりやすく、そして堅固なものにしたい。


・keyコーヒーが初めて登場するのは1話。飲んでいるのはゆりである。この場面、音無の「それなんだ?」という質問に、彼女は「keyコーヒー。美味しいわよ。」と返答する。この段階で自分の判断基準を持っていない音無は、ひとまず「ゆりのステージ」で世界を捉え生きることを選んでいる。すなわち、『keyコーヒー=ゆりのステージ』の象徴なのだ。


・次にkeyコーヒーが登場するのが3話。2話の降下作戦でゆりへの絶対的な信頼を覚え、彼女のステージで生きる決意をより強固なものにしていることを印象付けるためなのか、この挿話だけで実に3回も缶コーヒーは描かれる。





時系列に沿って説明すると、左は「最初の印象ほど悪い奴らじゃないよな。あいつら。」というセリフの後の場面。中央がユイとの会話の後、岩沢(ガルデモ)の練習を見に行く前である。右は岩沢の成仏後、この挿話のラストカットのもの。このときの音無のセリフは「消える条件は天使の言いなりになって正しい学生生活を送る、それだけじゃなかったんだ。」というもの。音無が世界を「自律的」に捉え始めていることが分かる。表情も左の2枚と比べ、変化している。つまり、「ゆりのステージ」を否定はしないが、それを踏まえた上で自分なりに世界を捉え始めようとしている状態にあるといえるだろう。


・次に5話。屋上で昼食をとっている場面だ。テストの妨害やこれまでの行動を振り返り、「こんなことで何かが変わるんだろうか。」という疑問を語る音無は、缶コーヒーを持ってこそいるものの口にはしない。この世界で様々な経験をし成長した音無が、自らの格率をもって世界を捉え始める、つまり「ゆりのステージ」から降りる可能性があることが、この時点で示されているのである。


・6話で音無は完全に「自律的」な考えを持ち行動を始めることになる。その結果、彼は「ゆりのステージ」から降りる事を決めたのである。




一目瞭然だろうが、「ゆりのステージ」の象徴であるkeyコーヒーを苦々しい顔で飲み、「こんなこと続けて意味あんのかよ!」というセリフの後に空き缶を投げ捨て、教室に居る天使のところへ一人向かう。5話で示唆された「ゆりのステージ」から降り「自律的」な考えでもって世界を捉える選択を、空き缶を捨てることで達成したと言えよう。勿論、捨てる=否定ではないので誤解無きよう。あくまでこの場面は、ゆりの考えに完全に従うのではなく自分自身で考えようとすることの象徴として描かれている(「千と千尋の神隠し」ハクのおむすびをイメージすると分かりやすい)。
※この後、缶コーヒーを捨てる(「ゆりのステージ」から降りる)ことになる音無へ、その直前にゆりはトランシーバーを託している。ひょっとすると彼女は今後の展開を予期していたのかもしれない。トランシーバーは距離を繋ぐ道具だが、この場合は音無とゆりのステージを、そして心を繋ぐ缶コーヒーの替わりとして機能している。*1


  • まとめ
Episode 段階 主な出来事 心情の変化(発達課題/批判哲学的認識)
#01 Departure 乳児期 死後の世界に・天使に刺される・SSSに入隊 無垢/「他律的」に世界を捉える
#02 Guild 乳児〜児童期 ギルドへ・ゆりの記憶を聞き、共に天使と戦う ゆりへの「信頼」/SSSの「傾向性」に従う
#03 My Song 児童〜遊戯期 岩沢の成仏 経験を経て「自律的」に物事を考え始める
#04 Day Game 遊戯〜学童期 日向の記憶を聞く・日向成仏の危機 世界の仕組みへの「積極的」な疑問/「格率」に従い行動
#05 Favorite Flavor 学童期 テストで妨害を図る・天使の失脚 SSSでの役目を全う/天使の存在を「自律的」に解釈
#06 Family Affair 学童〜青年期 授業の妨害・天使と共に幽閉・直井の反乱 天使との「積極的」な交流・仲間を救いたい/敵に対しても主観的な格率で接する(定言命法
  • 今後の展望

以上のように音無は、死後の世界において発達課題を順調に経験・達成し、ゆり・直井の考え(自分で選んだわけでない・傾向性)によってでなく、「自律的」な判断によって行動し、自分を排除しようとする天使や直井であっても、主観的に妥当と思われる原理に従う定言命法)というカントの哲学(人間の認識が現象を構成する)に基づいて行動していることになる。
つまり、音無が今後直面し得る問題は、記憶を取り戻すことによって起こる「自我同一性」への悩みと、外部にある対象(例えばそれは「世界の秘密」や「生前の記憶」)を受け入れた上で、どう行動を送るかを選択するという問題であろう。言い換えるなら、記憶が無かったからこそ実践し獲得することが出来たものが全て否定された時に、それでも彼は自分を信じることが出来るかが問われることになるだろう。

音無の成長によって繋がれた、それぞれのステージ

ここまで作中における音無の成長過程をエリクソンの発達課題を参照することで振り返ってきた。ここではそれを踏まえ、彼の成長が物語にどう作用したのか、彼の成長がどのようにゆり・天使・直井のステージを結び付けたのかを、1〜6話においてそれぞれのステージを感じさせる場面、また音無の行動を紹介しつつ検証していく。


【1話】(音無=「ゆりのステージ」を選択)

  • ゆりの目線で語られる天使の存在(左上:ゆりのスコープを通じて)。
  • 信用できず天使のもとへ行き心臓を突き刺される(右上)。
  • 自らの失敗を認め、SSSに入隊することを決意し握手(左中)、ゆりのステージ(同じ目線)で世界を捉えることを決意(右中)。
  • 畏怖の対象である天使(左下)と同じレベルで対立することへの恐怖を感じ逃げ出す(右下)。

音無の天使に向ける目線はゆりのバイアスがかかった「他律的」なもので、それぞれのステージは抗争によってしか交わることが無い

【2話】(音無=「ゆりのステージ」への信頼)


全編において顕著に見られることだが、それぞれの立場(ステージ)の差異を表現するのに「高さ」を意識させる構図を用いている。天使の侵攻は天井の揺れ(左)、それに立ち向かうゆりは階段を駆け上がり天使のもとに赴く。1話で天使に恐怖を感じた音無も、全面的な「信頼」を置くゆりと共に対峙することで凛々しい顔になっている。

【3話】【4話】(「ステージ」を感じさせる構図・ゆりの神への視点)

左が3話、右が4話。共に「高さ」を感じさせる構図が採られている。

  • 3話は岩沢成仏に際し、ゆりが死後の世界への疑問、神の存在について考えている場面であるが、それぞれの立場(ステージ)を表現するのと他に、ゆりが神・天使について考えを巡らせるときにも「高さ」の構図が描かれているので、気になった方は是非探してみて欲しい。
  • 4話は、球技大会の行われているグラウンドをゆりが監視している場面。「武器を持っていない場合、天使はどう対抗してくるのか」を観察している。つまり、ゆりのステージで天使を利用する場面なので「高さ」を描いたと思われる。

【5話】(音無の「自律」がステージを繋ぐ)

上記したことの集大成。

  • 「天使は人間なのかもしれない」と思慮を巡らせるゆりの画は「高さ」を感じさせるもの(上中)。
  • 「自律的」に考え始めている(上記した様に缶コーヒーを飲まない、ゆりの洗礼から解かれた状態の)音無は、廊下で天使とすれ違っても以前のような恐怖は感じない(上右)。
  • ゆりと音無の考えの相違=音無の「自律性」の獲得を印象付ける、視線の交わらない構図(下左)も印象的だ。
  • 1話の対称として描かれる、スコープ越しの画。天使の存在を自分で考えた音無は、攻撃するのを止める様SSSのメンバーに伝える(下中・右)。
  • 下右の写真は傷心の天使とSSSを対比する「高さ」をもった画で描かれている。


それぞれのステージは「高さ」をもった構図で描かれ、印象的に作用しながら未だ繋がることがない。ステージが繋がれ(並列化され)、物語を進める下地が完全に整ったのが6話である。


【6話】(音無によって並列化されたステージ)

  • 缶コーヒーを投げ捨てたことからも分かるように、「自律的」に考え始めた音無は、格率に従い天使と「積極的」に関わる(左上)。
  • 幽閉された牢獄から脱出した音無は天使の手を取り走り出す(右上・左下)。この「手を取る」行為が、ゆりと天使のステージが繋げる作用をはらんでいる(音無は、1話でゆりと握手することで彼女のステージを受け入れた)。
  • その後、音無は直井を抱擁し彼の人生を肯定する(右下)ことで直井のステージを他のステージと繋げる役割を担った。


以上のように、この世界で様々な経験を経た音無が成長(人生を追体験)したことで獲得したものそれ自体が、決して交わることの無かったゆり・天使・直井、それぞれのステージを繋ぐパイプの役割を担ったのである。その象徴として描かれたのが、「ゆりとの握手」「天使と手を繋ぐ」「直井との抱擁」である。


おわりに

Angel Beats!」は人生賛歌であると脚本の麻枝准は語る。記憶を失った主人公・音無が死後の世界で成長する姿は人生を追体験しているように見える。また、自らの意思でなく他人に流され人やモノを判断・評価する風潮は現代社会においても顕著に見られるものであるだろう。
いよいよ物語が動き始めたアニメ「Angel Beats!」には、麻枝の「現代社会に対する問題意識」と「そこに生きる人々へのメッセージ」が隠されている。


※岩沢・直井の過去は回想によって描かれたもので、直接、音無に語られたものではないので修正しました。(5月12日)

*1:今後、天使や直井が仲間になるような展開があるかもしれませんが、その時は「缶コーヒー=同じステージに立って行動していくことの象徴」として解釈出来るかもしれません。天使が「私コーヒー飲めないの。」なんて展開になったら面白いですね。