『フラクタル』ヤマカンが身を賭した理由とは

はじめに

「ボーイ・ミーツ・ガールの冒険活劇」


フラクタル』は、その言葉に違わぬ形でスタートを切ったように思える。
王道にも模倣にも思われ、ともすれば唾棄されてしまうような展開であったかもしれない。しかし、そうであるが故、監督である山本寛(ヤマカン)の作品に込める「願い」や「祈り」とも言い得るような思いと決意が浮き彫りになったように思える。
彼は作品のリリースに際し「声明」を発表している(フラクタル-FRACTALE-公式サイト-)。昨今のアニメや、それを取り巻く様々な状況に対し彼が何を思い、何を願い、自分に何が出来るのかという自問自答の苦悩の果てに出した答えが『フラクタル』には込められている、そう考えている人も少なくないだろう。

「出会い」としてのラピュタ

キービジュアルや番宣スポットから、そして作品を見ても尚感じられたであろう「ジブリ感」、特に「ラピュタ感」。『天空の城ラピュタ』とスタジオジブリについて、ヤマカンはこんなことを言っている。

中学一年から二年に向けての春休み(だったはず)に私がTVをつけて偶然OAされていた『天空の城ラピュタ』。

これが私の人生を変えた。

本当に大袈裟な表現ではなく、それからは宮崎駿の背中を必死に追い続けた20数年だった。彼に一歩でも追いつこうと、無我夢中で走り続けた(そのせいで今迷子になっているのだが)。

(中略)

ジブリの「呪縛」から未だ逃れることのできない自分が、決然と一歩踏み出す、そこから始めなければならないことなのかも知れない。


「アニメ界の俊英、ヤマカンが語る“スタジオジブリの魅力”」

天空の城ラピュタ』は彼にとっての原体験であり、スタート・原点といった意味を持つ特別な作品だということが分かる。1話のサブタイトルの通り、まさしく「出会い」なのである。

だからこそ、1話は『ラピュタ』でなくてはならなかった。パクリと言われようと、『ラピュタ』であることに気付いてもらわなくてはいけなかったはずである。クレインはヤマカン自身の分身、作中の言葉で借りるならドッペルなのだろう。中学生のヤマカンが『ラピュタ』に出会ったように、14歳のクレインはフリュネと出会う。全てはここから始まるのだ。

クレイン=ヤマカン

冒頭クレインのモノローグで語られる言葉は、そのままヤマカン自身の考える「アニメ」や、彼を取り巻く環境への失望感のように思える。

「願いを捧ぐならってなんか変だ。普通捧ぐのは祈りだろう?そう、きっと見返りなんて返ってきやしない。きっと昼の星にバレるだけだ。ちっぽけでくだらない僕の願いがね。そして昼の星は僕を笑う。」

* * *

「いくら作品に思いをこめても伝わることはないだろうし、そんなものは必要とすらされていないのだろう。自分のようなちっぽけな存在がどんな作品を作ろうと、褒められることもなく、ただ「ヤマカンは終わった」と笑うやつがいるだけだろう。」

フラクタルシステムの完成により働かなくても生きていける楽園を手に入れた人類の姿は、現代(これから)の社会を批評的に捉えたものだとも考えられる。しかし、やはりこれはもっとピンポイントに、ヤマカンが「アニメ」について感じていることなのではないだろうか。
定時に昼の星(僧院)に祈りを捧げる(ログを送信する)代わりに、快適な生活を享受することができる「フラクタル」は、データベースの集合によって成り立つシステムのようだ。日々のデータベースの更新と、そこから得られる恩恵という「フラクタル」と人間の関係は、この作品に原案で参加している東浩紀が提起した「データベース消費」を連想させる。


そう考えると、一見単なる世界観の説明でしかないようなクレインのセリフも、昨今のアニメを取り巻く環境を批評的に捉えた言葉だという事がわかってくる。

フラクタルシステムが確立されたばっかの頃か。古典もいいとこだな。」
「この教科書の望む未来は確かにやってきた。仰るとおりほぼほぼ快適。誰かと触れ合わなくても大抵上手くやっていける。ちょっと退屈ではあるけど、これ以上の何かがあるとも思えないし。多少面倒なことといえばこれくらいのもんだ。」
* * *
『「データベース消費」や、他者の介在なしに欲求を即物的に効率よく充たしてくれる作品をインスタントに消費するスタイル(視聴者の動物化)は拡がりを見せている。昼の星に祈りを捧げるように消費者の好みやトレンドから目を逸らさず、それに応えることでしかアニメを制作し続けることが出来ないような退屈な状況に陥っているのかもしれない。』

また、作中には「データ麻薬」なるものも登場する。これは効率よく快楽を与える手段、いわゆる「萌えアニメ」と分類されるような作品のことだろう。クレインはこれを拒否する。つまりヤマカン自身もデータベースに依存したアニメに疑問を持っているということだろう。
1話、特にこのアバンパート(フリュネに出会うまで)は、ヤマカンのアニメに対する憂慮(「声明」の前半部分)を意味する度合いが強いように思われる。これらを踏まえた上で、世界観の設計について改めて考えてみよう。

世界観

フラクタル』の1話を受け、『天空の城ラピュタ』のほかに「似ている」と名前があがったのが『ふしぎの海のナディア』だろうか。監督の庵野秀明は、この冒険活劇を描いた後に『新世紀エヴァンゲリオン』を制作することになる。ヤマカンは学生時代に『エヴァ』の洗礼をまともに受けた世代と公言し、「乱暴に結論を言うと」と前置きをした上で「『旧エヴァ』でアニメは終わっている」という発言をしている。(思想地図vol.4「〔座談会〕物語とアニメーションの未来 p.176」)
庵野が自らを、宮崎駿ら第一世代の「最初のコピー世代」と称したのは広く知られたことだ。自分に続く世代に対し庵野は、「その後の世代はコピーのコピー。今やコピーのコピーのコピーの世代が登場し、作品を歪めて薄くしている」といった旨の発言もしている。ヤマカンは第四世代(コピーのコピーのコピー)にあたる。『フラクタル』に登場するグラニッツ一家(女性1人と男2人)は、『ナディア』のグランディス一味を思い起こさせるだろう。しかし、そのグランディス一味でさえも『タイムボカンシリーズ』の三悪のパロディなのだ。庵野が自覚的であったように、ヤマカンもまたそのことを自覚しているだろう。そうでなければ、出自を徹底的に暴露するような意識的な模倣は描けないはずだからだ。
ヤマカンは、別な意味においても自覚的な作家だろう。自分がどう思われて、何を言えば「客が喜ぶ」のかを分かっているように思える。それが、冒頭のモノローグであり、作品の世界観に表れていたのだと言える。


上記の座談会でアニメ評論家の氷川竜介が『エヴァ』の世界観とアニメ業界について非常に興味深い分析をしている。

サードインパクトで人類が半減した作中の世界観は、アニメ業界が力を失ってアニメ人口が半分以下になった黄昏時のアニメそのものだと。(中略)アニメ丸という船は、もともと九〇年代エヴァのずっと前から泥舟で大穴があいて水が漏れているわけです。今なお沈みかかっていて、それは変わっていないのでしょう。」(思想地図vol.4「〔座談会〕物語とアニメーションの未来 p.183」)

フラクタル』で、高度な技術とネットワークによりシステム化され資源再分配体制が整備され、基礎所得(ベーシックインカム)の導入によって楽園ともいうべき社会を手に入れた人類は、千年の時を経て衰え、世界人口は3億人にまで減っている。『エヴァ』の世界人口がおおよそ30億人であると考えれば、これはそのさらに十分の一にあたる。これは、データベースに基づき動物的欲求を充たすための消費者層(オタク)に支えられ、そこにさえ届けばいいという縮小再生産を続けた結果、アニメの持つ訴求力が、ごく限定されたコミュニティにしか届かなくなってしまったいという現状を意味しているとは考えられないだろうか。
「大昔の人間が作り上げたフラクタルシステムは最低限の機能だけを残し稼動を続けるが、歴史と技術を忘れ去ってしまった人類はそれを解析・更新する知恵を持たない。ただシステムを維持することが幸せの条件と信じていたが、徐々にそのシステムも崩壊しはじめている」という『フラクタル』の世界観は、やはり現状のアニメが抱える問題とピタリと一致するように思える。


クレイン=ヤマカンならば、世界を構成するフラクタルシステムはアニメを取り巻く環境を意味しているのではないだろうか。
フラクタルは、図形の部分と全体が自己相似になっているもの、自己相似形が入れ子状に無限の階層をなしているものを指す。タイトルに違わず『フラクタル』は、「現代社会」と「アニメを取り巻く環境」の小さな相似形の世界観を持っている。そこに暮らすクレインも、ヤマカンのドッペルつまり相似形としての分身として存在している。
データ麻薬を取り締まるために警察が登場したことで誰もいなくなってしまったバザーで、クレインは手に取っていたメモリーカードをくすねる。これは、現在のアニメが抱える問題にヤマカン自身も少なからず加担しているという事実を自己批判的に捉え、クレインに自分と同じ罪を背負わせたとも考えられるかもしれない。
とかく、フリュネと出会う前のクレインが置かれている状況は、「声明」に書かれたアニメを憂うヤマカンの姿と奇妙なほどの一致(フラクタル)をみせるのだ。

作品

フリュネとの出会い

フリュネはクレインにとって初めて身近に触れた”生身の異性”である。彼女の姿を見てクレインは言う。

「そんなはずないって分かってる。でも思ってしまったんだ。彼女は飛べるのかもしれないって。」

これは、今でも自らの「人生を変えた」とまで語る中学生時代のヤマカン少年とアニメ(『ラピュタ』)との出会いを表しているのだろう。
クレインがフリュネと出会うのは僧院にログを送信しているとき、すなわちヤマカンからすれば消費者の動向に目を向け、それに応える形で作品を作っていたときといえるだろう。業界に身を置き「アニメはもう駄目なのかもしれない」とまで考えた彼が、それでもアニメを作ろうと決意した背景にあったのは、この原体験とそこに立ち返りと自身が夢中になったアニメをもう一度信じてみようと思ったからなのだろう。


フリュネは『風の谷のナウシカ』を思わせるグライダーに乗り、『ナディア』を思わせる三人組に追われる形で登場する。この様子は、アニメ第一世代と第二世代(とそれ以降の世代)の関係、もしくはアニメを追いかける存在つまりは消費者の姿を暗に示唆しているのではないだろうか。
フリュネの姿に魅了されたクレインは、崖の細い道をなんとか渡って彼女のもとに辿りつく。いざ対峙しその姿を見てみると、彼女は傷を負い、しかもコミュニケーション不全っぽく、想像していた姿とは異なっていた。この展開も『ラピュタ』に魅了されアニメ業界に足を踏み入れ、ようやく自分の番が回ってきた頃にはアニメは既に自分が夢中になったものとは違う形になっていて、一体自分は何をすればいいのか、何が出来るのか分からないという世代的特徴に重なるものがある。つまり、

  • クレイン=ヤマカン
  • フリュネ=アニメの象徴
  • フラクタルシステム(世界観)=現在のアニメを取り巻く環境・市場
  • 僧院(昼の星)=アニメ的データベース、トレンド
  • 祈り=市場のトレンドを注視すること
  • データ麻薬=萌えアニメ

をそれぞれ象徴しているように読むことも出来るかもしれないということだ。

ドッペルと「父と母」

クレインは傷ついたフリュネを介抱するため家に連れ帰る。その家には両親のドッペルがいるが、この両親とは一体何者か。
まずドッペルについて考えてみよう。「食事は家族揃って一緒に」というセリフからも分かるように、ドッペルは与えられた役目を「らしく」振舞うもののように見える。「父らしく」「母らしく」「友人らしく」、人は誰でも程度の差はあれど、一緒にいる相手や役目によっていくつかの自分を使い分けている。つまり「祈り」によってデータベースに送信された個人のログから、その役目(例えば父として)にとって相応しい「らしい」部分だけを抽出(特化)したデータが送信され、それを代行するのがドッペルだと考えることができるだろう。つまり、本人とそのドッペルは相似の関係、フラクタルであるといえる。
それは部分的に見れば、限りなく本人と変わらないだろう。しかし、その人を構成する要素の「ある役目として「らしい」部分」だけを抽出したデータしか持たない存在なので他要素からの干渉を受けず、それゆえ役目はまっとう出来るが、一面的な行動しかしない(できない)ということだろう。クレインの父のドッペルを例にとれば、「父として」「夫として」は行動するが、その他の例えば「社会人として」の要素などは、あのドッペルにはあまり反映されないということだ。



そう考えても、あの会話には矛盾点とまでは言えないものの、気になる点が残る。それが、「5年前に仕事をリタイアし今は悠々自適の生活をしている」というセリフだ。自分のことを他人事のように話すというのは、それがあのドッペルにとって関係のない要素だからということで納得できるだろうが、「5年前」という部分をアニメの話に置き換えると面白いものが見えてくる。
今から5年前、2006年は『涼宮ハルヒの憂鬱』が放送された年なのだ。『ハルヒ』は「学園もの」「SF」「セカイ系」「美少女」等といった、それまでの「オタク的データベース」の玉手箱のような作品だといえるだろう。ヤマカン自身も『ハルヒ』で広く名前を知られる存在になった。そう考えると、食事は一緒にという父が5年も前に仕事をリタイアしていたことを今になって伝えるのは、フラクタルシステムのデータベースの更新が上手く機能していないという可能性を示唆したものではないかという考えが浮かんでくるだろう。つまり、アニメのデータベースが2006年の『ハルヒ』以降、新しい情報が書き込まれず更新されない(できない)不全に陥っている状況があると考えているのかもしれない。これをヤマカン自身に当てはめるなら、何をやっても未だに「ハルヒダンスのヤマカン」と言われ、そのイメージが払拭・更新されないと言い換えることができるだろう。


その後、クレインはフリュネを招き入れるため両親のドッペルを消す。そこで次に、ドッペルとしての存在ではない「父と母」はどんな意味を持つか考えていきたい。アニメ人ヤマカンにとっての父と母とも言える存在は、宮崎駿京都アニメーションになるだろう。前者は彼の人生を変え、未だにその背中を追い続け「呪縛」とまで言わしめる存在で、後者は袂を分かったものの理想の制作環境が整ったスタジオで、経験は変えがたい財産になっていると語る存在だ。
これらを「消す」となると、スキャンダラスなとり方をする人もいるかもしれないが、これは決してそういう意味ではないだろう。
冒険活劇には、主人公の成長と両親から自立という大枠のテーマがある。つまり両親とは一体何なのかを自覚している必要がある。どうしたって影響を受けているが故に超えなければいけない最初の壁、両親とはそういった意味を持つだろう。
アニメの象徴としてのフリュネは、ヤマカンとしてのクレインにこう言う。「あなたは自分の家族を自分の意思で消したのですか。」これは実写映画の監督をしたことや、京アニとの関係を必要以上に邪推するゴシップ好きな有象無象(もちろん私も含む)の声に実に似ているではないか。両親の庇護の下を離れクレインがクレイン自身で何が出来るのか、ヤマカンがヤマカン自身でアニメとどう対話していくかが描かれているように見える。


両親のドッペルを消したクレインを見て、フリュネは彼の手を借りることを拒む。それでもクレインは言う「変な子。でも…なんかいいな。」と。「飛べるかもしれない」と思った彼女が、若干電波っぽい感じだったとしても、それでも初恋ともいえる出会いの相手は魅力的だと感じられるということだろう。クレインへの失望からか一旦は手を借りることを拒んだフリュネが、彼に協力を請うことになる。
やっと出会えた麗しの人は想像していた姿とは違っていた。傷を癒してほしいと願い手を貸そうとしても、自分の行いを批判されそれを拒まれる。それでもまだ美しいと思っていたところに、もう一度チャンスが訪れる。この一連の流れは、ヤマカンの「今まで自分」との自問自答の姿だろう。「こっち見ていただけませんか。」というフリュネのセリフも、アニメから目を逸らすな、自分から逃げるなという言葉に思えてくる。

岡田麿里と「部屋」

クレインの「部屋」に足を踏み入れたフリュネだが、「部屋の乱れは心の乱れ」という言葉もあるように、部屋と心の関係はなかなか深い。この点について、脚本の岡田麿里に注目したい。岡田は部屋を心の象徴のように描くことが多い脚本家のように思えるからだ。
例えば『とらドラ!』では、散らかり放題だった大河の部屋が竜児の手によってキレイに整頓されたこと。外見上は明るく見える実乃梨の部屋が、なんとも殺風景で寂しげであったこと。ボロアパートに見える竜児の部屋がきちんと手入れされていることは、彼の外見と内面のギャップを示しているように見える。
true tears』でも、眞一郎の部屋に入る勇気のない比呂美の姿や、同居後はじめて比呂美の部屋を訪れた眞一郎の誤解とおせっかいで心のすれ違いを。店に訪れた三代吉を招き入れようとする眞一郎へかけられる愛子の「開けないで!」という言葉は、彼女の本当の心を表現していると考えられる。終盤に描かれた眞一郎の自分を戒める決意は部屋のさらに奥の押入れでと、やはり部屋と心を象徴的に描いている。
黒執事II』でクロードが屋敷の内装を変える様は、その後の洗脳(心の書き換え)を想起させていたように、岡田の脚本では部屋と心が密接な関係を持つことが多いのが分かる。クレインの部屋も彼の心、ひいてはヤマカンの心とすることも無理な話ではないだろう。


つまり、ここからのクレインとフリュネの会話は、心を開けっぴろげにしたヤマカンのアニメに対する自己問答なのではないだろうか。
部屋には人からすればガラクタに見えるかもしれないけれども自分が集めてきた(時間と思いをこめられている)大切なもの。誤解されているかもしれないけれど、わざわざ人に言うまでもなく心の中で大切にしている両親とも言うべき存在。変わってしまったかもしれないけれど、確かにあったはずのアニメを楽しんでいた頃の自分。そんな純粋な気持ちを思い出して作品を作ってみようという決意が、このシーンには隠されているような気がする。
フリュネは「あなたの笑顔なら、きっと守ってくれるはず。」という言葉と共に、クレインに「笑顔の源となっているおまもり」を渡す。これは『フラクタル』を制作するチャンスを得たヤマカンの姿のように見えるだろう。

消費者としてのグラニッツ一家

そこへ、フリュネを追ってグラニッツ一家がやってくる。先ほどは判断を保留したが、彼らは視聴者・消費者の象徴という意味を持つのではないだろうか。
消費者がアニメを疲弊させている現状も少なからずあるわけで、それはフリュネを執拗に追い回し攻撃していた様子に似ているように思える。彼らが自分の姿を隠し(偽り)一方的に言いたいことだけを言う様子は、ネットスキャンダルに巻き込まれるヤマカンのそれに見えるだろう。エンリの「うるさい!このデッカチ頭!」なんていうセリフは、いかにも彼が言われていそうな言葉だろう。
彼らは勝手に部屋に上がりこみ家捜しを始める。これは粗探しをするアンチ的な人の行動に見える。目当てのものが見つからなければ、捨てゼリフを吐いてそそくさと撤退していくのも、いかにも「らしい」行動だといえる。
先ほど部屋は心の象徴だと書いたが、その部屋でグラニッツ一家はクレインが隠し持っていた「えっちぃもの」を見つける。これはヤマカンの自虐的なジョークなのではないだろうか。


その後、電波の届かない礼拝堂跡に移動し、二人は改めて言葉を交す。
「この時代に生きる人は縛られることを嫌い、特定の家も持たないと聞いています。」フリュネはクレインに言う。この言葉は、例えば2ちゃんねるのようなネットの声にディスられないことだけを気にして作品を制作し、それを消費するという限定的なフィードバックの市場関係を続けた結果、徐々にスポイルされ特定の層にしか届かず、それもごく短い期間で消費しつくされてしまうというアニメ業界が陥っている現状のように思える。
こうした会話を電波の届かない(=外野の声から離れたところ)でするということは、そうした声があることを理解した上で、それとは適切な距離をおいて作品を作りたいという意思の表れのようにに思える。事実ヤマカンは、『フラクタル』について言及することを極端に避けている。つまり、ネットの「祭り」的な盛り上がりで作品が消費されてしまうのを嫌い、作品の本質を見てもらいたいと考えているのだろう。
フリュネはブローチを月明かりに照らし「守ってもらいな」と優しく話しかけ、クレインに改めてそれを託す。

キャラクターについて

フリュネ

フリュネの素性はほとんど明かされていないが、どうやら「グラニッツ一家」と「僧院の科学者(バローとモーラン夫婦)」に追われているらしい。
前者はエンリの兄スンダがリーダーを務める組織で、フラクタルシステムによって成立した世界を「人類が堕落し誇りと気概を失った時代」と規定しシステムに頼らない世界が必要だと訴える「ロスト・ミレニアム運動」を起こしている。先に彼らを消費者の象徴ではないかと仮定したが、彼らがフラクタルターミナルを体内に入れていないためゴーグルを使わないとドッペルが見えないというのは、なかなか洒落ているのではないだろうか。

後者はフラクタルシステムの管理者で、システムを再起動させるための研究に心血を注ぎ、その鍵を握るフリュネに病的とも言える愛情を傾け最前線に立ち彼女の救出に奔走する科学者バローと、人類の幸福を取り戻すために崩壊を続けているシステムを再起動させ、失われつつある楽園的世界の再生を目指す、祭司長であり、僧院の象徴としてシステムの政(まつりごと)を担うモーランの夫婦だ。(共に公式サイトと事前情報から)両者がどのような関係にあるのかは分からないが、共に目的のためにフリュネ(の力)を必要としているようだ。
なぜフリュネが必要とされ追われるのかは定かではないが、彼女が言った「この時代の人は〜〜と聞いています」という言葉に全力で釣られてみよう。クレインの暮らす時代を「この時代」と言うことは、フリュネは過去か未来から来たと推察される。彼女の持つブローチと礼拝堂跡の遺跡にあった紋章の形が一致していることから、ここでは過去から来たと仮定して話をすすめる。
フリュネをアニメ、世界(フラクタルシステム)をアニメを取り巻く環境、僧院をデータベースを象徴すると考えるならば、機能不全に陥ったシステムを再起動させるために僧院がフリュネを追い求めているのは、アニメを在りし日(というものがあるとして)の姿に戻したい、もしくは現状が駄目駄目なので蓄積されたものも含め一切をリセットしてゼロから始めようと考えているからと翻訳することができるだろう。

僧院はシステムを再起動させるため、グラニッツ一家はそれすら阻止するために、それぞれ鍵となるフリュネを追っていると考えられるのかもしれない。


では何故、システムの再起動にフリュネが必要なのだろうか。
フリュネがアニメの象徴、フラクタルシステムがアニメを取り巻く環境・市場であるなら、それこそ作品(供給)と市場(需要)が円環的因果論に基づくと仮定するならば、それらは相似(フラクタル)の関係をもつと言えるのではないだろうか。神の見えざる手によりバランスが保たれるのではなく、外部不経済によって市場の失敗が起こった(起こりうる)のがアニメ業界で、その象徴としてのフラクタルシステムも崩壊の危機を迎えていると強引に理解することも可能だろう。


先ほどフリュネは過去からの来訪者と仮定した。「舞台となっている時代のフリュネ」は既に死んでいるのかもしれないし、瀕死状態で僧院に保護されているのかもしれない。それに来訪者と言っても、何も実体がタイムトリップしてきたとは限らず、フラクタルシステム再建の為に、保存されていた過去のデータをフリュネの人格に上書きした「フリュネ´」とも言うべき存在を僧院の科学者が作り出したのならば、それも広義のタイムトリップだと言えるだろう。入れ物としての体と移植された人格というのは綾波レイ的ではあるが、「私は誰か、何者なのか」というセリフもあるように、自意識をこじらせ自分が利用されることを嫌い僧院から逃げ出したとも考えられる。いずれにせよ、なんらかの決定的な変化が起こったのが「5年前」で、それ以来データの更新が滞っているのだとすれば、クレインの父のドッペルの会話にも合点がいく。
フリュネ(部分)とフラクタルシステム(全体)が相似の関係にあり、「全体の変化が部分に影響を与え不具合(システムの崩壊→フリュネの死)が生じる」ならば、「部分を変えることで全体を遡及的に立て直し(過去の健全なフリュネ→正常なシステム)再起動を図る」という考えに到るとしても不思議ではない。これは何もアニメに限った話ではなく、現代における個人と社会の問題にも当てはまるだろう。


この「システムの再起動」というのは、着想に差はあれど『エヴァ』の「人類補完計画」とよく似ているように思えるし、フリュネとシステムの関係は「セカイ系」のようにもみえるだろう。近景と遠景(「君と僕」と「世界」)が直結するセカイ系の系譜を(正統的とは言わないまでも)受け継いでいるのが、近景のみを描くいわゆる「空気系」になるだろうか。空気系で近年の代表的な作品といえる「けいおん!」は、卒業により主人公たちが中景と接続されることで一旦の終了を迎えた。『フラクタル』がアニメやそれを取り巻く環境を象徴的に描く作品だとするならば、それらモチーフを登場させるのは自己批評的な意味合いを持つためには必要なことだと言えるだろう。

ネッサ

続いてネッサについて考えてみよう。

フリュネが残したブローチからでてきたドッペル。無邪気で好奇心旺盛。通常のドッペルとは異なり完全な少女の形を維持しており、データでありながらクレインが触ることができる。高機能である故、近隣のデータ回線やメモリ領域を過度に圧迫し、フラクタルターミナルとサーバー間の通信が滞ったりセンサーが狂ったりすることがある。(公式サイト:キャラクター紹介より)

「守ってもらいな」という言葉と共にクレインに託されたことからも分かるように、ネッサは特異な存在のようである。

キャラクター原案の段階では髪や瞳の色が同じであること、フリュネのブローチから出てきたこと、それが礼拝堂跡にある紋章と相似形であることから、ネッサはフリュネないし僧院と深い関係があると考えるのが自然だろう。フリュネが16歳、ネッサが10歳であることは何度か検証した「5年前」をも想起させる。

モチーフと関係性

フリュネは古代ギリシャの有名の有名な娼婦であるフリュネがモチーフになっているだろう。彼女は本名をネサレテといい、これはネッサを連想させる。ネサレテは「胸に美徳を秘めし者」、フリュネは「ガマガエル」という意味を持つ。彼女の肌が黄色かったことから娼婦仲間や客からそう呼ばれたらしい。
(以下、太字がギリシャの娼婦のフリュネ、細字が『フラクタル』のフリュネ)


フリュネは不信仰の罪(「エレウシスの秘儀」を冒涜した罪)で起訴される。エレウシスの秘儀は、「人を神性へと到らせ神と成し、その人を不死の存在として確かなものにする」という「再生と罪の赦し」を意図して行われていのだと考えられている。これは先ほど例に出した『エヴァ』の人類補完計画のようにも見え、『フラクタル』で僧院の科学者がシステムの再起動を目指す姿とも重なるものがあるだろう。つまり僧院がシステムの維持・再起動の為に行っていると思われる「政」は、このエレウシスの秘儀に類似した行為で、巫女であるフリュネも当然何らかの(重要な)役割を担っていると考えられるだろう。秘儀とはすなわち口外することを許されていないことなので、僧院の外に出ること自体が罪に当たるのかもしれない。
彼女を訴えたのは、高額な代金を請求された議員だとも、普段は衆人環境で裸になることのないフリュネが、エレウシスの祭りの時は彼らの好奇心に応えるために裸になって海に入り、神話の演劇的再現を見せるのを妬んだライバル娼婦だとも言われている。
フリュネはこの裁判で、愛人の一人でもあったヒュペレイデスの弁護を受ける。形勢は不利であったが、ヒュペレイデスが彼女の上着を引き裂き(フリュネが自分で脱いだという説もある)体躯を露わにし、それに魅了された裁判官の心変わりによって(別に下心ということではなく、そこから感じられる神々しさを神から与えられしものと納得し)無罪となった。
人気の娼婦だったフリュネは、客に請求する値段を自由に決めていた。気に食わない相手なら、たとえ一般人の年収と同等の金額を提示されてもこれを拒否した反面、立派だと思った哲学者ディオゲネス(無一文で、樽に住んでいたこともあるらしい)からは、金を取らずに一夜を共にした。


裁判のエピソードとディオゲネスのエピソードは『フラクタル』に関連付けることが出来るだろう。

フリュネは僧院から抜け出し、グラニッツ一家にも追われている。彼らが彼女を必要とし追い求めているのは、フリュネに巫女としての神性な(システムを再起動する鍵とも言うべき)力があるからだろう。薬を塗るためにクレインの前で裸になるフリュネの姿は、裁判でフリュネがとった行動に似ている。この場合、裸をみせるのは自らの神性や利用価値を相手に見せるということを意味する。そのまま眠りについたフリュネに、クレインは悪戯をするわけでも魅了されるわけでもなく、ただ服を着せベッドに寝かせパソコンで作業を始める。その姿を見てフリュネは、フリュネが権威や名声には流されず自分の価値観で事を決めていたように、初対面のクレインに「あなたですね間違いなく」という言葉と共に自らのブローチを託したという風に。


彼女の愛人だった彫刻家プラクシテレスがフリュネの美しさを彫像によって永遠に残そうとしたように、僧院もフラクタルシステムと、その運用に不可欠なフリュネを永久に残そうとしているのかもしれない。先に「データとしての人格」の可能性で挙げた「入れ物としての体」は、彫像とも言い換えることができるかもしれない。


フリュネというあだ名の由来ともなっているガマガエルは、魔女が怪しげな薬を調合するときに必ずといってもいいほど材料として登場することや、容姿が醜く毒を持っていることもあって決して良いイメージではない。しかし、シェイクスピアの『お気に召すまま』第二幕第一場に「逆境が人に与えるものほど麗しいものはない。それはガマガエルのように醜く毒をもっているが、頭には貴重な宝石を宿している」というような一説も登場するように、その本質に目を向けることが重要だと考えられる。
娼婦であるフリュネの本名が、「胸に美徳を秘めし者」という意味を持つネサレテであったように、フリュネの持つ宝石がネッサということになるだろう。
ネッサはドッペルである。ドッペルは実体の「ある役目」だけを代行する存在だと仮定した。それならばネッサはフリュネの「僧院の巫女という特別な役目を負っていない部分」、つまり「普通の少女として」のドッペルだと考えられるのではないだろうか。巫女でもシステム再起動の鍵でもなく、僧院から出たことのない世間知らずで好奇心旺盛な普通の少女としての自分のドッペルを、裸を見ても特別視も利用しようともせず、大切なものを大切に出来る心を持ったクレインに守ってもらいたいと思い、フリュネはブローチ(ネッサ)を彼に託したのかもしれない。


つまり「フラクタルシステム」と、その再起動の鍵である「フリュネ」、その少女たる部分だけを代行するドッペルとしての「ネッサ」は、それぞれ全体と部分という意味において、フラクタルであると言うことができるだろう。「フラクタルシステム」も、現代社会ひいてはアニメを取り巻く環境を象徴的に描いたものだろうことから、社会>アニメ業界>フラクタルシステム>フリュネ>ネッサが、それぞれ自己相似の入れ子状の構造、つまりフラクタルであると考えられるだろう。
そんな世界を、ヤマカンのドッペルであるクレインが、世界の卵・アニメの卵とも言うべきネッサと共に旅をするというのが『フラクタル』なのではないだろうか。

クレイン

クレインのモチーフになっているのは、数学者クラインと、『存在と時間』の第四十二節に引用された寓話に登場するクーラ(気遣い)だろう。
クラインにより考案された「クラインの壺」は、裏表・境界の区別を持たない(つけられない)閉曲面の一種。おそらくこれはクレインの性格を表すのだろう。裏表のない真っ直ぐな性格だとも、自己の内面に外界を内包するのだとも考えられる。またフラクタル集合の変形はクライン群の変形の規則性に伴うらしく、両者は無関係ではないらしい。
こうしたことを踏まえると、世界(フラクタルシステム)の相似形であるところのネッサの変化はクレインの変化に伴い、二人が共に世界を回り成長すること、両者の関係性を変化させていくことが、そのまま遡及的に世界の変化に繋がるということになるだろう。


後者の寓話を極めて乱暴に要約すれば、「粘土から像を作り上げたクーラ(気遣い)、精神を与えたユピテル(収穫)、身体を与えたテルス(大地)が、像には自分の名前が名付けられるべきだと話し合っていたが決着がつかないので、サトゥルヌス(時間)に裁きを頼んだところ「精神を与えたのだからユピテルは像が死んだら精神を受け取り、身体の一部を提供したのだからテルスは像が死んだら身体を受け取りなさい。クーラは像を最初に作り上げたのだから、それが生きている間はクーラが所有しなさい。名前について争っているが、フームス(土)から作られているのだからホモ(人間)と名付けなさい」と言われた。」という話だ。哲学的な意味はさておき、この寓話自体が『フラクタル』に符合するように思えるではないだろうか。
つまり、フリュネのドッペルだから(娼婦フリュネの本名である)ネッサという名前で、ブローチからネッサを取り出したクレインと共に旅をする。(仮に)ネッサが消滅してしまった後は、身体を与えている(フラクタルシステムを管理する)僧院には身体が、精神は現段階においてはフリュネの少女性だろうが、今後成長を遂げるならそれに寄与した人(当然クレインも含まれるだろう)や社会に、それぞれ返ってくるというようなことがないとは言い切れないし、それを察知し全てを独占しようと企む者が出てくることも考えられるだろう。

マンデルブロ・エンジン

原案 東浩紀

存在論クラインの壺を参照しなければいけなかったように、東浩紀が原案で参加していることについても考えなければいけないのかもしれない。

神とも呼ばれるフラクタルシステムに管理され、基礎所得の導入により働く必要もなく、ドッペルの存在により他人と直にコミュニケートする必要もなくなった人類は、世界各地に散らばり暮らしている。この社会形態は非常に奇妙に見える。
他に干渉されることを嫌い、個に立脚した生活をそれぞれの意思によって「まったり」と営みながらも、そうした相対主義的な社会への不安、つまりは共通する基準の喪失により、誰が何を考え、自分の考えを他人がどう思っているのかがわからないという「郵便的不安」を覚え、その不安を解消するために自己の分身たるドッペルに他者とのコミュニケーションを自己満足のような形で代行させ、これらを実現してくれるフラクタルシステムを神として崇め信仰しているとも捉えることができるからだ。
この社会システムのスタートが一体どのようなものだったかは分からないので文面的な意味にはなってしまうが、これは「論理的脱構築」し否定的に現れたものを絶対視する否定神学システム、つまりは「存在論脱構築」を体現させた社会システムのように見える。「所与のシステム(フラクタルシステム)を形式化し、そこに自己言及的な決定不可能性(解析不可能なシステムに神性)を見出し、そのポイント(フリュネ)を超越論化することでシステム全体の構造を逆説的に説明する思考」というのは、( )に『フラクタル』の要素を代入すれば、僧院が試みようとしていることに似ているように見える。


東は、こうした否定神学に陥らないためには「郵便的脱構築」が必要だと説いた。重要になるのは「無意識的な直接的コミュニケーション」だ。ストーリーを軸にこれを考えてみよう。
裸で眠りについてしまった自分に服を着せて寝かせてくれていたことや、父と母との思い出や自分の笑顔が映ったデータを大切に残しているクレインを信用し、自分の意図を直接伝えるのではなく、これまた眠ってしまった彼にブローチを託したフリュネと、彼女に何を言われた訳ではないけれども、それを古いデータだと察し解析してネッサを出現させたクレインの行動というのは、言語を媒介にしたコミュニケーションではなく、無意識的なコミュニケーションによるものだと捉えることができるように思える。
ネッサがフリュネの少女性のドッペルだとするならば、クレインとネッサの直接的なコミュニケートは、非同期・非対称(データ更新にラグが発生するだろうし、同一時間の存在体ではないかもしれないことから)な、クレインとフリュネの無意識的な直接的コミュニケーションだと言うことができるだろう。ネッサ、フリュネ、フラクタルシステムはそれぞれ相似形であるだろうことから、クレインがネッサとコミュニケートすることは、システム・社会との無意識的な対話だともいえる。
クラインの壺が内と外の区別がつかないものであるように、無意識なコミュニケーションで感じ得られたものが自己理解や他者への理解につながり、クレインの変化がネッサ→フリュネ→フラクタルシステムに遡及的に影響を及ぼし、そこで生じる微細なズレ(誤配)が世界の多様性として重要なのかもしれない。
フリュネとネッサを「エクリチュールの断片」、フリュネが僧院を抜け出したことを「回帰構造の内破」と関連付けるならば、システムの恩恵を受け暮らしているクレインが、交流と成長を通じこれまでとは違った世界の帰結を導き出すという行為は脱構築的な方法論と言えるのかもしれない。

脚本 岡田麿里

「社会と個人」「ポップカルチャーサブカルチャー」などは、二項対立的な文脈で比較され語られることも多いが、それらの直接的な祖は同じ、つまり共に同じ文脈から発生するものであるだろうから根幹に抱えるのは似たような問題(意識)になるだろう。
フラクタル』はヤマカンのフィルターを通して見ればヤマカン的に見えるし、東のフィルターを通せば東的に見える。これらを、それこそ無意識的な直接的コミュニケーションで感じとりストーリーに翻訳するのが脚本家の岡田麿里の役目になる。
岡田は真っ直ぐで、だからこそ残酷な一面も持ってしまうストーリーを描くのが巧い脚本家だろう。つまり、「あるべきところに収まるストーリー」は、裏を返せば「なるようにしかならない」ということであり、結末に到るまでの過程で、「あり得たかも知れない未来」と「決断に伴う様々な犠牲」を登場人物たちが自覚することで、関係性と物語の強度を上げるような描き方をすることが多いように思える。


フラクタル』で、僧院がシステムを再起動(リセット)しようとしているのは、広く見れば未来からの過去の否定になるだろう。つまり「現状が望ましい状態ではないので、これまで起こったこと(蓄積)も、これから起こりうること(可能性)も全てリセットしてしまってゼロから始めましょう」ということだ。
クレインはそれを望むだろうか。ちょっぴり退屈だとは感じていても、モノや思い出を大切にする心を持ち、フリュネやネッサと出会うことになったこの世界がリセットされてしまうことを彼は望まないのではないだろうか。それこそ「この間違った世界で僕は君に出会った。この世界を君を愛している。」と言ったルルタ=クーザンクーナのように。
要するに、ある面から見たときに現状が望ましい状態にないのだとしても、望ましい過去に(懐古的に)回帰するのではなく、そうしたユートピアがあり得たかもしれないことと、その差異から導き出せる現状の問題点と良い点を自覚した上で、連続した時間帯である未来に新たな活路を見出すほかない、つまりは今を生きていくしかないという結末が用意されているような気がする。
フリュネが歌っていた「昼の星に願いを捧ぐなら 夜の星にさようならを告げ」という一説にもあるように、全ての願いは同時には叶わないし、何かを選択することは何かを捨てる選択をすることだ。真に願いを捧げるべきものは一体何なのかも考えていかなくてはならないだろう。

おわりに

クレインが大陸の片隅から冒険をはじめるように、ヤマカンもアニメを巡る冒険をするのだろう。傍らにいるのはアニメの卵としてのネッサだ。
おかしな世界を旅するクレインとネッサの成長が、そのままシステムや社会に遡及的に影響を与えるかもしれないように、「もう駄目かもしれない」とも感じてしまった「アニメ」が『フラクタル』で少しでも変わればいい、変わって欲しい、そんな願いをこめているからこその身を賭した勝負なのだろう。