『けいおん!!』物語の輸入を試みる貿易の軌跡

日常がそもそもフィクションである

ひだまりスケッチ』『らき☆すた』『みなみけ』そして『けいおん!』等々「日常系アニメ」と呼ばれる作品は多い。これらは、作品と視聴者がある種の共犯関係を結び作品内部における日常というイメージを共有する作品群だろう。

大きな共同幻想が持てない状況下だとしても可能な、これらの小さな共同体の物語の共有は、『作品内部に拡がりを持たない箱庭を構築すること』、『「私」的目線を持ち込まず傍観者に徹すること』などを条件に、箱庭内部でのルールに則り描かれるフィクショナルなストーリーを「日常」として扱い提供・享受することで成立する。
外部との接続のない閉じられた檻の中で描かれる出来事を「私」的目線なしに観察する訳だから、物語は発生しにくく(必要なく)、ケージの中の小動物をただ愛でられればいいというような需要に支えられ、日常系アニメはひとつのジャンルとして人気を得ている。つまり、日常のイメージを共有、成立させるためには、箱庭という舞台の存在が重要になる。

実在の風景を持ち込むこと

けいおん!」では、背景に京都の街並みが描かれ、キャラが使うモノも実際に商品として売られているものが使用されており、放送直後にそれらが「特定」されている。これらは、高校球児にとっての甲子園、修学旅行生と清水寺、大きなバッグと駅・空港というようなそれだけで記号的な意味を持つものではなく、キャラの歩いた道や普段使いの日常品のような特別な意味を持たないものにおいて持ち込まれる。フィクションを成立させるための箱庭に現実世界の風景を輸入し虚構世界を構築するという手法だ。

このような手法のブームの火付け役になったのが、同じ京都アニメーション制作の『らき☆すた』だろう。『らき☆すた』は4人の女子高生が「日常」生活を送る姿を観察するキャラクターアニメだ。物語が必要とされず、キャラが箱庭の中に居続ける(逃げない)ことが保障されているのが人気を獲得した一因として挙げられるだろう。これに加え、作中に登場する鷺宮神社のモデルとなった鷲宮神社にファンが「聖地巡礼」をする様子も話題になっている。彼らは虚構世界に輸出された風景を「ここに○○の歩いた道がある」と現実世界に再輸入している。つまり、この虚構世界の箱庭に実在の風景を落とし込む手法は、その箱庭と現実世界をある種並行的に接続しフィクションの世界に現実の痕跡を残すことで、虚構が現実に侵食してくるような効果をもたらしている。
現実世界と背景で擬似的に接続された虚構世界は、その中に細部にまで忠実な風景やモノが描きこまれていることでこれを媒介として現実であると仮定させ(し)、結果的に相補関係でより強固な箱庭を完成させることに繋がる。そうなることで、劇中で描かれる「日常」は、綺麗過ぎて現実的でないストーリーだとしてもイメージとして共有しやすくなる。

また、日常系アニメと称される作品群の登場人物のほとんどが中高生というのも、この年代の共同体が学校・家族・地域という比較的狭いコミュニティに存在していることが、箱庭を成立させやすいという理由にあるからだろう。


実在の風景をモデルとした作品で広く知られているのはジブリ制作の『耳をすませば』だろう。劇中では、聖蹟桜ヶ丘駅多摩ニュータウン近辺の風景が描かれている。
日常系アニメの箱庭とは異なるだろうが、この作品も背景で現実と虚構を接続し、そこにいるキャラクターを丁寧に描写することで物語に真実味・説得力を持たせている。その証左がテレビ放送後に、ネット上である種ネタ的に巻き起こる阿鼻叫喚の声だ。
現実の風景が輸入された世界の中で希望を持ち生き生きとしたキャラクターが送る「日常」の姿は、本当のことのように錯覚させる力を持ち作品的強度を高めているが、その強さゆえ物語自体が現実世界に侵食し、「私」的目線を導入に徹し見る者にとっては、そのあまりに綺麗な世界に自分の現実が否定されたような感覚に陥ることがある。


このように、虚構の世界観を作り上げるために現実の風景を輸入することはイメージの強化と作品世界に説得力を与える反面、外部との接続や「私」的目線が持ち込まれてしまうと、その説得力の強さゆえ現実を否定するような力を持つ。このままでは日常系アニメと呼ばれる作品とは相性が良くない。そこで「私」的目線の見方が出来ないよう物語を排除し、虚構世界の説得力だけを利用したのが『らき☆すた』だったのだろう。視聴者は「ありそう」な日常のイメージを、私を捨てた観察者に徹することによって受容することができた。

日常系アニメの箱庭に物語を持ち込むには

「私」的目線の導入を許さない箱庭の中で起こる日常に物語は必要とされていない。クライマックスとして訪れる話の盛り上がりはあるが、それが物語と同義とは言えるかは疑問だ。完璧な箱庭であるがゆえ、外部からの侵入やキャラが外に飛び出すようなことが起こりにくい日常系アニメに物語を発生させるにはどうすればいいのか。『みなみけ』シリーズを例に見てみよう。
みなみけ』(1期:無印)と『みなみけ〜おかわり〜』(2期:おかわり)は連続して放送された続編ものではあるが、監督や制作会社が異なる変則的な形でシリーズ化された。『無印』の方は、作品の冒頭でも語られるように「南家三姉妹の平凡な日常を淡々と描く」日常系アニメの王道のような作品だ。物語は存在せず、キャラの関係性や安心に担保された箱庭の中の出来事を観察した人が多いだろう。続く『おかわり』では、無印で構築された箱庭の中にフユキという外界からの異物を投入、加えて長女 春香が留学するかもしれないという、「箱庭内部のかき回し」と「キャラが外界に出る」ことによる日常の非日常への変化という二つの側面から物語を発生させよう試みられた。結果的に、フユキはまた外の世界へ、春香の留学も無くなり平常運転の日常に戻ることで話を終えるわけだが、作品自体の評判はあまりよくなかった。その後制作された3期『みなみけ〜おかえり〜』では、「平凡な日常を淡々と描く」無印に近いスタイルに戻ることになる。が、この一度構築された箱庭の崩壊を予感させることは、それ自体が物語の発生装置として機能する可能性は十分にあるだろう。


けいおん!!』でも、この箱庭の揺さぶりで物語を発生させる試みが行われている。それは卒業により箱庭が壊れるかもしれない、キャラが外へ飛び出していってしまうかもしれないという予感に基づくものだ。しかし、これらも視聴者の目線が観察に徹するものであれば、ただ箱庭が拡大されるだけでインパクトを持たない。そこで『けいおん!!』では、1期『けいおん!』で作られた箱庭を手前に転がすことで「私」的目線の導入を一部では許容することで物語の生成を図った。





観察者的目線は作品を上部からの俯瞰、「私」的目線の導入は、その世界が現実のものと擬似的に錯覚させる平行的な目線だ。この二つの目線の方向性は、作品によって変化するのもではない。
先に例を挙げた『耳をすませば』は、箱庭的ではないから開口部が広く観察者としても「私」としても視聴することができる。【図1】

日常系アニメでは、現実との比較で欝要素をもたらすような「私」的目線の方向は不必要なので封鎖されており、視聴者は「可愛い」だとか「萌え」のような快楽の提供される上部の開口から内部を観察する。風景は箱庭内の完成度を高める為に利用されている。1期の『けいおん!』はここに属する。【図2】

これを手前にパタリと倒したのが、【図3】の「けいおん!!」的箱庭だ。観察者的目線から見えないことはないが、それだとあまり面白くないので、より快楽の多い開口部である「私」的目線の方向に移動する必要がある。しかし、その方向にあるのは視聴者からすれば現実との比較という持ち込みたくないもの、制作者にとっても日常系アニメからその目線は排除したいもののはずだ。つまりこの目線は双方にとって変質させる必要がある。それが図にも示した「キャラに憑依した目線」、言葉を変えれば「キャラを知っている「私」の目線」だ。これは現実世界との比較や差異を指摘をする「私」的目線とは異なり、あくまで箱庭の世界観に準拠した目線だ。これは観察者的目線が変化した目線で、快楽もこの目線に対し多く提供される。
これで、既にこの方向にある「私」的目線が完全に排除できるかといえば当然そんなことは無く、倒されているとはいえ強固な箱庭であることも本質的には変わりはない。そこで既にその方向に存在した邪魔と思われる「私」的目線は、箱庭に揺さぶりをかける存在として利用される。『おかわり』でいうところのフユキの存在を視聴者に仮託させるのだ。箱庭崩壊の予兆は物語の発生装置であるから、視聴者は謂わば自分が作り出した物語をマッチポンプのように増殖させることになる。
この倒された箱庭に基づく二つの目線の導入は『けいおん!!』が2期目の作品であったから可能なことだろう。どのようにして箱庭を倒したかは、1期と2期の差異を確認することで発見できる。

拡大された箱庭とキャラの人間宣言

ご存知のように『けいおん!!』は人気作の続編である。1期では、唯のマイペースっぷり(入部以前やテストでの赤点、ライブ前の風邪)、遊びたい派の唯・律・紬 vs 澪・梓(合宿や新勧関連)、律と澪の関係(幼馴染→喧嘩?)のように、それぞれのキャラクター性や関係性に基づく挿話が多い。つまり、2期で視聴者はそれらをよく理解した状態で作品を見ることになる。

内外の評価から強固に確立されたキャラクター性とそれぞれの関係性というのは、箱庭で描かれる日常に不可欠なものだ。○○は何キャラ、ここで○○が出てきたらこういうオチになる、みたいに即座に理解できるテンプレ化されたキャラクター性が求められている。
日常系アニメと呼ばれる作品に「物語」が存在しないものが多いのは、それが変化を生むものだからだろう。だからそこに描かれるストーリーは仲直りしただとか、成長により内部的な承認を受けたのように、あくまで小さな共同体の中での関係性を強化することにおいて発生する。1期ラストの文化祭ライブは、唯の小さな成長と5人の関係性の強化(輪になり内に向き合って演奏する内部的承認)の確認をクライマックスに用意し話を終える。最後は観客に向かい演奏するが、そこにいるのは始めから「がんばれ〜」と見守ってくれる人たちで絶対的な外界とは言いがたく、それがそのまま外部的承認を得たことに繋がるかは疑問だ。「観客にも認められる私たち5人の絆って凄い」を確認するため、つまり内部的承認をより強く確認するために箱庭の範囲が少し拡げられたとするほうが良いように思える。
何にせよここで軽音部から講堂、学校に範囲を拡げられた箱庭は2期でもそのまま維持され、その中で話が展開されることになる。だからこそ2期からは純やクラスメイトが舞台に登場することが出来、お茶会やマラソン大会、部室騒動などで見られる「学校内での軽音部の存在」のような挿話が描くことが出来た。20話の学園祭ライブも、拡がった箱庭の内々での出来事であるわけだから内輪向け感満載なのは当然のことだろう。結果的に一番外部に開かれていたライブは、梓が入部を決意した新勧ライブということになるだろう。


拡大されたとはいえ、箱庭であることは変わりなくこれで外界と接続された状態になったとは言えない。【図1】のように視聴者が観察者に徹するのであれば、例えば卒業のような関係性の変化を生みそうな出来事であっても箱庭崩壊への揺さぶりをかける存在にはならず、ただ箱庭の範囲が拡大されるだけのエピソードになってしまいそこに物語は発生しにくい。
箱庭を倒すためにまず行われるのが、「キャラの人間宣言」だ。1期でそれぞれのキャラのキャラクター性は視聴者によって確立されている。観察アニメにしたいのであれば、そのキャラクター性をより強調する、例えば唯と律をよりダメに、澪と梓をよりしっかりものに、紬をよりお嬢様に描くことでそれが可能になるだろう。
しかし、キャラクター性を強めるとフィクショナルな出来事であることも同時に強調され、視聴者は観察者の目線から降りてこない。そこで、『けいおん!!』では2期であるという特徴を利用し、1期では見られなかった部分を、つまりキャラの「多面性」を描くことでテンプレ化を防ぎ、より人間「らしく」みせようという試みがなされている。これが以前 普通の女の子に戻りたい! 「けいおん!!」における『キャラクター性の放棄』その繊細な方法 で触れた部分だ。
5話が放送された時点の記事であるが、その後も例えば律のボタン付けや料理、澪の夏フェスでのはしゃぎっぷりや、勉強中での「私もムギと遊びたかったのに」発言、1期では描かれなかった梓の同級生内での立ち位置など、既に認められている部分を深化させるだけでなく別の部分もあわせて見せることで、キャラをより多様性を持つ人間に近いものとして描こうとしているのが分かる。これは決して1期で造形されたキャラクター性を否定することではなく(例えば澪は相変わらず恥ずかしがり屋だ)、既知の部分だけを徹底して話を描くことはしないということだ。それは既知であるが故、出発点のようなものに置き換えられる。このテンプレから多様性への変化の過程を視聴者がキャラクターの成長だと感じるのであれば、そこに物語が自動的に生成される。キャラクターを理解していれば、紬が唯や律のボケを理解しツッコむ(俗世間を理解する)だけで、唯に到っては朝早起きできただけでもそれが立派な成長とみれるのだ。物語は作品内部に存在するのでなく、それを見た外部に作らせる。
キャラクター造形の多様化と、そこから感じられる成長という物語が「キャラの人間宣言」で得られる効用だ。ただ、この効果を最大化させる為には【図3】で言う所の「私」的目線の先にある「キャラに憑依した目線」を獲得させる必要がある。これには、視聴者が各キャラを理解していること、キャラが身体性を持っていることに加えて、視聴者をこの箱庭の世界に引きずり込む必要がある。それが出来て初めて箱庭が横に倒されたということが出来るだろう。
参考:『けいおん!!』目線の意識と演技する画面

箱庭に招待する演出

視聴者を箱庭に招待するために最も重要になるのが画面作りだろう。文字通り画面に視線を惹き付ける必要がある。そこに背景や動作の細部に到るまでこだわって描くことを選択し実際にそう出来れば虚構が現実に侵食しているような効果をもたらすことは、『耳をすませば』を例に見た。実際『けいおん!!』でも、「俺にはこんな青春無かった」「これ見て泣いたやつはリア充」のようにフィクションでありながら、あたかもそれが現実の延長線上にあるかのような感想が散見された。このような意見が出てくる時点で箱庭の横倒しは思惑通り達成されていると考えられるが、これを可能にしたのはやはり演出家とアニメーターの功績が大きい。
ここでは敢えて『けいおん!!』ではなく、『涼宮ハルヒの憂鬱』から「涼宮ハルヒの溜息」、そして1期である『けいおん!』での画面作りを参照にしたい。というのも、視聴者は『ハルヒ』であればキョンに「私」を重ね合わせ、そこから世界を見、『けいおん!』では観察者目線で作品を見ることが多い。『けいおん!!』ではこれらのハイブリットな目線が必要になるわけだから、『ハルヒ』と『けいおん!』を参照し京都アニメーションが行う画面への招待の方法を見るのは無駄ではないだろう。
今回は高雄統子氏、石立太一氏、そして山田尚子氏の三人に焦点を当てる。
gifは白画面がスタート。

高雄統子

まず高雄さんのカットの特徴にあるのが、カットを動作で繋ぐこと。





画面が変わるキョンが来る、画面が変わるキョンがくる(左)、話す人→話す人→違う人(中)、ハルヒが動くから画面が変わる古泉が話すからキョンが向くキョンが向くから画面が変わる(右)のように、場面毎に動作が連続し次の展開に繋げるカットが多い。画面が変わることに必然性を持たせられるだろう。





画面の下から出てきたりもする。指差した所に澪が居たりもする。

このようなつなぎをすることで、カメラに描かれた範囲にしか世界がないのではなく、ある世界の一部をカメラで切り取ったような印象も生まれ世界の範囲が拡がる、すなわち現実世界と似たような感じに拡大する。


他に特徴的なのが、光度を変化させる演出。影を見せるために光を利用するような画面作りだ。



この光の使い方がフィクションであることを担保しているが、効果的に挿入されてくるので画面にイヤでも集中させられる。

石立太一

続いて石立さん。彼の画面はモノとか後頭部、人物の後姿とかをなめる。




画面空間に奥行きが生まれるのはもちろんの事、キャラが背を向けたり全体像を見せず見切れ状態にすることでカメラの意識的概念から脱却し、画面をモニターの外に延長、すなわち虚構を現実に侵食させるような効果を生む。カメラで撮られた映像を見ているというよりも、まるで自分がその場で見ているように画面に視聴者を招待している。
画面にも勿論意味があって、例えば中段右の二つは、金持ちと庶民ネタのオチ、練習したい人としたくない人。下段は新入部員と迎える人のようになっている。

このナメの画は会話においても用いられる。下にあるのは個人的な会話、親密な会話の例。これらは非常に狭い範囲での会話なわけだが、その後に引いた画面を挿し込む。私の世界の外には広い世界がある事実が提示されるということだ。キャラの範囲にしか世界がないのではなく、あくまでキャラは世界の一部に過ぎないということを意識させることで、箱庭世界が広く延長的であるかのように錯覚させる。(↓3つで1セット)



引きの画面は何もこうした場面に限定されるわけではない。



何か事が起きる、もしくはその前→引く、引いた画面は生垣だ建物だ人だをなめるている。これも同じくキャラは広い世界の部分的な存在で、起こった出来事は世界の一部の出来事にしかすぎないということが意識される。
キャラクターアニメには、ある種可愛くてなんぼ顔が見えてなんぼの部分があるし、一般的にはカメラには背を向けないとか横切らないという意識があるだろう。石立さんの場合はこうした概念を平気で裏切る。



下に到っては、かぶっちゃって紬が見えない。
石立さんも光を使うのが好き。感覚としては高雄さんとは逆で、光を見せるために影を利用している感じ。石立回では風呂も眼鏡も光る。



加えて、石立さんが担当する回のキャラクターは、虫のように光の方に寄って来る。光がそのまま「正」を表すかのように光に憧れている。





(左)澪にとって練習のできるハウススタジオは憧れだから光って見えるが、紬には外で遊ぶほうがいい。他の3人は光のある方へ駆け出し、澪は暗いスタジオに残されるが結局は光を求め自分も外へ行く。
(中)色々と不満の残る澪も、結局は光に魅了される。仕掛け人の律と紬まで見とれちゃう。この後、光ってる風呂に4人で入る。
(右)退部しようかと悩む梓は右の方で光っている唯たちの姿を見てここでやっていこうと決める。

このように、侵食してくる画面と光の魅了で画面に力を与える。

山田尚子

最後に山田さん。彼女は視線を描く。




上は映画を作ると言い出すハルヒが会議を開く場面。
話している人の方を見、その人が視線が変わればそちらを見る。誰か違う人が話し始めれば、そちらを見るという視線の流れは、我々が普段から特に意識もせず当たり前に行っていることである。この流れはパートを挟んで約10分にも渡って描かれるこのシーンであっても、飽きることなく自然に受け入れられるだけでなく、視聴者を画面の外から見ている人ではなく、6人目のSOS団異世界人?)としてその場に居るような感覚にさせ話に引きずり込むというような利点も生まれている。


これとは逆に、視線の交わらない場面は不安を引き起こす。




入部を断りに来た場面での唯は視線を合わすことが出来ず、後ろめたさを感じさせる(左)。なんとか引きとめようとする3人は視線で会話する。唯もその目線の内に入れられ(右)、この後演奏を「見る」ことで再び入部を決意する。


けいおん!』の13話では、唯以外の4人が個別の懸案事項を抱えている状態なので視線が唯を経由しないと交わらない(左)。特に律の場合は、澪の書いた歌詞を見知らぬ人からのラブレターと勘違いしているので、この二人の視線が交わらず誤解がどんどん大きくなる(右)。




その後、律は弟と別れ一人、澪は一人で歌詞を書きに海へ、紬はバイト、梓は家で猫の世話とフラットな視線を交すことのできる人がいない場所にいる。これを回復させたのが、唯からのメールだ。ケータイの画面を通し視線の交錯が擬似的に回復された状態になる。



その後、紬の働くファーストフード店に集まり、実際に視線が回復することで律の誤解も解けいつもの日常に戻る。



さらにこの後、部室で手が冷たい温かいみたいな話が起こり皆で手を取り合う身体性による回復も図られている。
つまり彼女が担当する回、作品では視線がフラットに繋がる関係=仲間というお決まりみたいなものがある。フラットというのが重要で、唯の入部経緯の件では、「断りに来た唯」と「カモを逃がさんとする3人」は、唯は3人を上に、3人は唯を下に見えているから事が上手く進まない。最終的に演奏する姿を見せ、正当評価を促すことで万事解決する。
梓の件でも、勧誘している4人は着ぐるみだから直接は目が合わず、その後も軽蔑の目で見たり、音楽室を上に見たりでフラットにはならない。逃げるようにしていたところで憂とようやく視線を結び、講堂に赴く。演奏を見るときは、ステージ上の4人を背伸びしてみる=羨望の眼差しなので入部後もごたごたが起こり、部室においてフラットな状態で再び演奏を見せる(石立回なので光もある)ことで、ようやく仲間入りできるという感じだ。
なので、先ほど書いたライブにおける箱庭の拡大というのは、それぞれのステージの高さを調節し視線を結ぶことの出来る人物を増やす儀式みたいなもので、その結果、作品に干渉できる人物が増えていくような具合になっている。回を重ねるごとに同じ高さのところにいる人間が増えるわけなので、ライブはどんどん内輪向きになっていく。ということを考えると、澪に憧れているものの軽音部はちょっと下に見ている純の存在は決定的な他者ということになるわけだが、梓や憂を通し徐々に懐柔されていき非常にあやふやな存在にされる。澪ファンクラブも同じで、ただ好きならフラットなものの、それが憧れだけなら違う高さの人間だ。これもお茶会で原液のポエムを聞かせることで、ある種政治的に同ステージ上に無理やり落とし込まれる。


次にキャラの身体性について。彼女がキャラに身体性を与えるためによく使うのが「脚」だ。



彼女のコンテ回で脚が描かれることが非常(異様)に多いことがお分かりいただけるだろう。
ハルヒ』や『けいおん!』のような等身が比較的人間に近いデザインの作品で脚を描くと、文字通りの意味で地に足が着いたような印象が生まれ、キャラクターに身体性が芽生え始める(を印象付ける)。


今回は3人の紹介にとどめるが、これだけでもフィクションの世界が平面ではなく空間であること、キャラクターが世界の一部であること、その世界で実際に生きているような身体性を描き出すことで、虚構が現実に侵食してくるような画面作りを京都アニメーションの演出家陣がしていることがわかるだろう。


ちょっと話を変えて… 紬・唯・梓の軽音部入部の経緯にも面白い演出が見られる。



これら魚眼レンズの効果がかかった画は、左から紬・唯・梓が入部する前後に登場する。ここから、この3人が軽音部をどう捉えているかを知るが出来そうだ。
紬であれば、効果がかかるのは律と澪に対して。つまり彼女は、「友達」や普通であることへの憧れが入部への決意となり、それが大切だと考える。
唯は音楽室の看板。この前のアバンで学校の校門でもこの効果がかけられているので、唯は高校や音楽室といった場所、「5人が一緒に居られる空間」が大切なものなのだろう。
梓は上級生4人に。4人の演奏に惹かれ入部を決意した梓は、その中で「一緒」に演奏できることを大切に思う。
律が創部のきっかけとなり親友の澪と共に礎を作った軽音部は、それぞれ別の思いを含んだものとなる。だからこそ律と澪が喧嘩した際には、その土台ごと崩壊してしまうような危機感があったが、彼女たち二人が繋がり続けるなら軽音部もといHTTの継続性は担保されることになるだろう。梓にとって大切な「一緒」が卒業によって崩れてしまうかと予感されたのが2期の展開なのだろう。

「私」はどこ?主人公は誰か

かくして箱庭への招待しキャラの身体性を付与した『けいおん!!』だが、ストーリーは観察者の目線で見ると大して面白くない。そこで視聴者は目線を移動することになる。すると、作品に「私」を持ち込むか、それともだれかに仮託させるか選択する必要が生じてくる。
しかし、キャラクターたちは内面のようなものは外から見ることができない。そこに見出せるのは型だけだ。そこで施されたのが「キャラの人間宣言」なのだが、いわばこれは1期では色だけ決まっていた風船に、2期で模様を書き込むことで視聴者がそれを膨らませたくなるように、つまり存在しない内面を勝手に吹き込ませる余地を発生させる効果を期待されてのことなのだと思われる。
このようにして、「私」的目線では「こんなのねぇだろ」と思い、移動した観察者の目線では現実世界に延長された箱庭が卒業によって壊れるのではないかと、自己発電的に楽園の崩壊を予知する。それに加えて、自分で膨らませた風船(ダッチワイフと言い換えてもいい)の膨らみに物語を勝手に見出すということが可能になって、ようやく倒された箱庭が形作られることになる。


主人公が誰なのかも曖昧で、HTTの5人及び周囲の人間を含んだ音楽室や学校という空間こそが主人公のような扱いになるのも、作品的な主人公を唯、物語的主人公を梓に持たせた後に、例えば、成長的主人公を紬や澪、それぞれの調整役としての律、保護者的役回りの憂・和・さわ子、内部の比較対象としての周囲と仮に設定され、それ役割が挿話もっと言えばカット単位で順次入れ替わっているからだろう。これを可能にしたのも、視聴者がキャラの特徴を知っている前提の下に行われるキャラクター性の多面化だ。

このようにして視聴者は「キャラに憑依した目線」を獲得し、自分で膨らませたキャラの内面を工作し、自家栽培した物語を箱庭の外側から持ち込んでいく。つまり物語は外部に委託された状態にある。
この時求められているのは、あくまで「キャラに憑依した目線」であって、世間一般の社会常識や「私」の自己を持ち込む「私」的目線は邪魔者以外の何者でもないのだろう。「4人一緒の大学とかないよな」と思いつつ「しかし、あの決断は澪にとって……」のように存在しない内面を膨らませることで、物語を個人輸入(出)するしかない。

卒業へのタイムリミットを機に発する「あずにゃん問題」については、『おかわり』でいうところの春香の留学を卒業に、フユキの存在を視聴者に託し箱庭を内から掻き回せる。自分で掻き回しているのだからフユキのような嫌われ者は存在しないが、その役目を誰かに擦り付けたくあれば、例えば唯の鈍感さの部分などに分配的に振り分けることになるのだろう。
「『けいおん!!』が終わってしまって悲しいファン」と「三年生が卒業して一人になってしまうかもしれない梓」というのは、なるほどよく似ている。だからこそ、それが箱庭崩壊への序章に繋がっているかのように見えることもあるが、その目線は揺さぶりにおいてのみ有効で、「自分は作品が終わって不幸だと思っているから、梓も不幸でなければならない」というのは作品に反映することが出来ない部分なので、「あずにゃん問題」とは全く論拠を異にする別物だろう。
参考:「あずにゃん問題」は起こってるけど、起こってない。

けいおん!!』には「私」の居場所はなく、ただ空気入れと化した存在が必要とされている。

最終回

で、最終回。これにルールに則った上で物語を輸出しよう。


『絆創膏』と『タイツの穴』
「卒業をお祝いしたい気持ち」と「卒業して欲しくない思い」が交錯し心ここにあらずの梓は、壁にぶつかりおでこに怪我をする。風に前髪が舞い上がり、『絆創膏』(本音=卒業して欲しくない)が露呈するのを必死に隠す。
一方の唯も、朝からギターの練習をして遅刻寸前で学校に来る。練習していたのは勿論梓に贈る歌だろう。憂がエスパーして和が預かった新しいタイツに履き替えたので、梓だけがこの『タイツの穴』の存在を知らない。互いの心の内を隠しているような状態。




視線のルール
教室で憂の本音を「同じ視線の高さ」で聞いた梓は、4人をお祝いしようと決め音楽室に向かう。



和と唯
「一緒に帰ろうね」の後に和と唯が交す謎のサイン。小中学生の頃、仲間内にだけ伝わるオリジナル手話を作って授業中に会話した経験がある人も多いだろう。それが高校生になった今でも伝わる二人の関係が、これからもずっと続くことを予感させる。



『絆創膏』と『写真』
本音がこぼれる時に絆創膏は剥がれ落ちる。梓に「貼られる」のは唯から貰った絆創膏。唯たちの上に梓を「貼った」写真、押し花にされた桜の花びらを添えて。
憂と和にタイツを届けてもらった唯が、梓に絆創膏をあげてる意味は大きい。





カップに写りこんだ4つの光
梓への演奏の前に映る唯のカップには、4つの光が映りこんでいる。4が何を意味するかは言わずもがな。



演奏する4人は梓をガン見、梓も下を向かずその姿を真っ直ぐに見つめる。フラットな視線の交錯は仲間の証。
音楽室に入ってきた さわ子と和を5人が見つめる画。
あれ…?視聴者ってさわ子だったの?ラストがこの目線で終わるということは、この作品が本質的にその目線に支えられていたという事を明示しているだろう(『目線の意識とー』で触れた思い出の元ネタの部分)。その後、音楽室の扉→廊下→校舎とカメラが遠ざかる。彼女たちが外に出るのではなく、視聴者が外に出されることで「おしまい」。

おわりに

けいおん!!』は、一度完全な箱庭を作り、それをぱたりと手前に倒し限定的に外部性の導入を許容し、物語を外に委託することで作品の体裁を担保させた作品だろう。現実世界の風景をフィクションに輸入し快楽を輸出、そこから物語を再輸入するという貿易、もしくは快楽を提供する代わりに年貢として物語を徴収させるような形で日常系アニメに物語を発生させた。
このような手法が果たして掛け捨てなのか積み立てなのかは、今後に続く作品の登場を待たなければ分からない。