「Angel Beats!」想像力の方向性 -My song に呼応する Your Song-

はじめに

この投稿は、「Angel Beats!」とは一体何だったのかを【構造】【ストーリー】【想像力】の三編で振り返るものであり、ストーリー的な謎解きをするというよりも作品自体が持つ大きな謎を探ることで、いかに自分を納得させられる物語を見つけ出すかを主たる目的とするものである。

構造編

Angel Beats!」は、提示された謎をひたすら追っていくことで展開した物語である。言い換えるなら、物語の持つ「可能性」は冒頭が最も大きく、進展するに従いその「可能性」を物語の外部へと捨て去り、収束していくことでほとんど自動的に解決・終わりを迎えるような構造の上に成り立っている。
つまり、死後の世界の「謎」と「記憶喪失」である主人公:音無の目線を通し描かれる物語は、謎・記憶喪失であるが故、いかようにもなり得る可能性を孕んでいるが、ある時点で提示された条件に従い推察された物語の持ち得る可能性(例えば「死後の世界=電脳世界説」「ゆりは音無の母親説」「音無は生まれる前の胎児説」)【図1】は、ストーリーが規定される【図2】と同時に棄却され、物語の外部へと放出されていく【図3】。(図1から6は、横軸(→):ストーリーの進行・縦軸(↑):物語的可能性)




物語が進展するにつれ、そこに内包される可能性が次第に縮小し物語を終えようとするこの構造は、ミステリーや謎解きに似ているように見える。ミステリーであれば、規定はアリバイや動機の有無と言い換えることが出来るだろうか。では「Angel Beats!」はミステリー作品なのか。答えは否だろう。脈略なく突然現れるご都合主義的な物語的の規定(例えば直井の超能力や成仏の価値転換)は、物語に非論理的な武力介入を謀る(侵食する)という破壊的な面白味を持つが、結局は表層の物語に一瞬関与するだけで、その可能性が物語に内包されず、結果的にストーリーを断片化させてしまっているからだ(後述【図6】)。なので、たとえ構造がミステリー的であってもそのままイコールで結びつけることは難しい。
「物語の進行が恐ろしい程に遅く退屈あり、脚本が理不尽で破壊的」という作品への印象は、おそらく「Angel Beats!」が持つこの特徴的な構造によるものだろう。作品を擁護する意見として、「批判されている部分は麻枝准の過去作品で散々議論し尽くされたもの」「麻枝的想像力に慣れていない受け手の問題」といったようなものをよく見かけたが、少なくとも私はその意見には納得出来なかったし、説得もされなかった。私のように麻枝的なストーリーにあまり慣れていないライトな層も、また「Angel Beats!」で初めて麻枝作品に触れた人でも、このアニメがどこか普通ではないことには早い段階で気付いただろうし、ある作品を視聴する上で、監督や作家、脚本家の過去作品やその人の作家性を知っていることは楽しむ為の近道にはなるだろうが、知らなければ理解できない、分からなければ感性が足りないと言う言動には得体の知れない選民意識が見え隠れし、他の受け手さらには作者すらも貶めるだけで何の意味も持たない。そもそも批判の矛先は、表層の物語よりも作品構造に端を発しているものが殆どだと思うので、そもそも物語構造の異なる「Angel Beats!」を過去の麻枝の作品であることを理由に擁護・補完するのはこの場合においては不可能だろう。
確かに「Air」なら翼人伝説、「CLANNAD」なら町と幻想世界が「Anegel Beats!」の死後の世界と対応するだろうし、ある種のシステムに登場人物が翻弄され、それぞれ折り合いをつけることで物語を終えるという物語の規定(=ストーリー)はよく似ているかもしれない【図4】。しかし、そのシステムを抗うべき対象と自覚的に捉える「Angel Beats!」と、運命や理不尽さに無自覚に弄ばれ続ける他作品には微妙な差異がある。決定的に違うのが構造である。
例えば「Air」なら運命に縛られた登場人物たちが如何にして死を選択出来るかが描かれる表層の物語は、受け手側にメタ的に発生した自分はか弱い女の子を救うことができるという過剰な自意識が作品内に色濃く反映されている点を除いて「Angel Beats!」と非常に似ているが、DREAM・SUMMER・AIRの三篇で綴られた物語は外部に放り出されるのではなく、それぞれ構造内部に転化されている点で違うものと言えるだろうし、「CLANNAD」で表層に描かれる物語(可視化されたストーリー)は、あり得たかもしれない可能性(例えば、渚以外の○○ルートのような展開)が物語に内包される、つまり可能性の犠牲が内部に蓄積することによって成立する物語【図5】であってその構造は「Angel Beats!」のそれとは全く異なる。




つまり、「冒頭に提示された物語の謎に一直線に向かう展開」「あり得た可能性が物語内部に全く蓄積されない構造」「表層の物語への唐突な侵食」という致命的な構造の欠陥に起因する批判は麻枝准であることを理由に反論・擁護できるものではない。表層に乗っているストーリーが麻枝准的なのは分かりきっており、誰もそれに対して批判をしている訳ではないので、彼の作品であることを理由に反論されても埒が明かない。問題となって浮き上がってくる物語の断片化は、その構造に因るものであって構造を異とする過去の作品群を例に擁護する行為もまた説得力を持たない。完全な擁護をしたいのであれば、脚本が麻枝准であることを隠されていた場合にも有効足りえる回答である必要がある。

【図3】をより詳細なものにして構造編を終えることにしよう。



詳細なものと言っても【図3】を少し変えただけだが、黄色の部分が先にも述べた物語への武力介入、侵食の箇所である。4つなのは便宜上そうしただけで特に意味はない。「Angel Player」「直井の超能力」「成仏に対する価値観の変化」「10話ユイと日向のやりとり」「謎の青年」などなど、人によって「?」と感じる箇所は様々だろうが、物語の外部から唐突に現れるこの価値規定(転換)は物語の内部に還元されるわけでもなく、ただ物語的規定(赤線=我々が見ることの出来るストーリー)を断片化させる【図6】。
この『構造によって断片化されたストーリー』が「Angel Beats!」の持つ最も魅力的で重要な部分なのだが、その詳細は想像力編で。

ストーリー編

我々は描かれたストーリーにアクセスすることで印象を形成していく他ない。構造編で取り上げた物語的可能性の内包/棄却もストーリーによる規定に頼ったものである。
Angel Beats!」においてストーリーへの導き手となったのは音無だろう。突然謎の世界に放り込まれ、しかも記憶喪失という特性を持つ音無の姿に視聴者は自分を投影しやすく、まずは彼の視線を通して描かれるストーリーで物語にコミットしていく。記憶喪失の主人公が様々な経験を通じ成長し、謎や敵に立ち向かう様式は非常にスタンダードな手法であるといえる。とかく視聴者は音無と他者との関係性や、彼が見る世界からストーリーを見出していく。


まず我々は記憶喪失+何も知らない音無と同じ状態で、世界で始めて出会った人物であるゆりのバイアスがかかった世界を見ることになる。つまり、『視聴者⇒「音無←ゆり←天使(世界)」』のように、それぞれのフィルターでろ過された、ないし歪められた情報を元にストーリーと世界観を認識する【図7】。



岩沢の成仏などを経験した音無は世界について自分で考え始め【図8】、直井の反乱や天使との会話によって音無は徐々に世界にコミットする【図9】。5話・6話(テスト・食堂・幽閉)のあたりから「個としての天使」は世界の謎からは独立した存在となる。この時点でゆりも世界と天使に対して思慮を巡らせているので、「世界を通して天使を捉える:ゆり」と「天使を通して世界を捉える:音無」にズレが生じ始めたといえるかもしれない。




7話で記憶(この時点では一部ということは知らされていない)を取り戻した音無は、「死後の世界の経験」「自己の記憶」「ゆり」そして「個としての天使」と向き合うことになる(呼称の変化:天使→立華→かなで)。ゆりも、これまでの経験に加え、釣りでの様子を見ることや分裂・Angel Playerの操作を通じ、天使を個として捉え始めていったのだろう【図10】。



9話で記憶の全てを取り戻した音無は、天使と共謀しSSSの面々を成仏「させてあげる」(10話)ことになる。この成仏を肯定的に捉える価値変換は、「自分が規定する世界」が「世界に規定される自分」を凌駕する様、つまり世界の問題が個人の問題にシフトするセカイ系的想像力に基づいたものかもしれない。この挿話で音無とゆりの思想は一時的に乖離する【図11】。



この後、世界システム(=神)は登場人物の中に完全に包括されることになる。音無の考えが正しいもの(=世界への回答)として描かた10話と、音無との世界認識の差異をゆりが認めた11話に加え、12話ではゆりと世界をコントロールする代弁者的存在である謎の青年との対話がなされ、ゆり個人の問題として解決される。世界の問題がそのまま個人の問題へと還元ないし解体され、世界が個人の内に取り込まれる様が描かれたのがこれらの挿話だろう。一旦離れた音無とゆりのストーリーも、外枠にあった世界が個に内在したことで、互いの共通項を見出すかのように再び接近する【図12】。



端的に言ってしまえば、あの世界に神などいない。12話教室でのゆりの自己問答は、「記憶を失い、性格も変わって生まれ変わるなら、それは自分の人生ではなく他人の人生だ。自分の残酷で理不尽な人生は自分が受け入れるしかない。しかし、そんな人生は受け入れられないから自分は戦う」というものだった。この時点で彼女は、理不尽な人生を強いた「神」に縛られているのではなく、自分の人生を受け入れることが出来ない「自分自身に縛られている」ことに気付いている。ひょっとしたらもっと以前に気付いていたのかもしれないが、ここで初めてその思いが表面化=ストーリー上に登場する。つまり「神」は、世界のシステムに存在するものではなく、自らの内に在ることを悟るのだ。音無は生前報われた人生を送ったため本来未練を持たないが、仲間にも報われた気持ちを知ってもらいたいという死後の世界で出来た気持ちを果たすために行動している。要するに、自己を縛る「生前の未練」や「心残り」こそ神で、それはシステムでも存在するようなものでもなく、自分の中にあるものなのだ。音無は報われた自分の人生の記憶を取り戻すことで、ゆりは自分の人生を受け入れることと、作中の言葉で言えば仲間に対する「愛」に気付いたことで、自らの内にある神とそれぞれ決着をつけることになる。


個によって解決・決着を迎えたこれらの過程を経て、死後の世界の認識は「自分を取り巻く問題」から「個人それぞれの問題」へと変換し個人に内在化された。三者の思惑が一致している部分が作品的ストーリー(13話であれば卒業式の件)として表面化したのだろう【図13】。



物語的可能性をストーリーによって規定するのだから、それらが共に収束(【構造:可能性の縮小】【ストーリー:個人化】)していくのは至極当たり前のことだろう。では、「あったかもしれないという可能性」や「犠牲」が内在されず物語の外へと棄却される構造を生み出した規定(=ストーリー)と、それすら突如として規定外部からなされる武力介入により断絶させるという、構造的欠陥と規定的矛盾を抱える「Angel Beats!」を受容するためにはどうすれば良いのか。次項の想像力編に続く。

想像力編

Angel Beats!」がMAD的想像力で作られた作品ではないかということが多くの方によって指摘された。これは、ゼロ年代の作品群、例えば「涼宮ハルヒの憂鬱」「コードギアス」「DEATHNOTE」等や、麻枝の過去作品の美味しい部分を繋ぎ合わせて作られた作品が「Angel Beats!」なのではないかというものだ。MAD的というのであれば加えて意識しなければいけない部分がある。それが『「Angel Beats!」は作品そのものがMAD動画である』ということだ。想像力のMADで作られた作品であるのに加え、作品自体がMAD化しているという特徴を持っている。
MAD動画は、時系列や整合性は無視し作品の美味しいところだけ抽出して繋ぎ合わせ、バックに場面にあった音楽をかけて作られる二次創作作品である。作品本編を知っている人は動画の背景にあるストーリーを思い出し、感動したり笑ったりといった反応をする。知らない人でも動画に熱量があれば同様に楽しめるだろう。とかく、MAD動画はその背景に本編のストーリーを想像させること、ないしは動画内の熱量で感情を誘発するような特徴を持った作品である【図14】。



先にも述べた、「Angel Beats!」は作品そのものがMAD動画化しているというのは、作品内で幾度か描かれた「泣き」を想定した場面、例えばそれは、

  • 03話:岩沢の成仏
  • 06話:直井と音無
  • 09話:音無が記憶を取り戻す一連の流れ
  • 10話:ユイの成仏
  • 12話:ゆりと謎の青年のやりとり
  • 13話:音無とかなで

のようなシーンに代表される。これらはいずれも「セリフ(脚本と演技)」「演出」「音楽」を印象的に作用させることで、大事なシーンであることを強調している。ストーリー的な流れを考えると、あまりに唐突で事故的発生するので「感動」というよりむしろ「驚き・困惑」の方が大きい。しかし、前後の文脈や整合性を全て無視し、その場面「だけ」を切り取って見ると不思議な熱量がある。整合性よりも、熱のあるセリフ(「やんよ!」など)・演出・音楽に重きを置かれ描かれたシーンだけを見る限りにおいては感動できるような要素が存分に詰め込められているのである。まずこの点において「Angel Beats!」はMAD動画的だといえるだろう。
このMAD的なシーン群が構造編で言及した、物語に唐突になされる武力介入・侵食の正体である。文脈を無視し描かれる「感動的」なシーンはそれ自体が整合性より熱量を重視した存在であるが故、ストーリーを分断する。つまり、そのシーンが無ければ物語として成立しないにも関わらず文脈の外から唐突に侵食してくるが故、本筋をも断片化させてしまうのである【図6】。
恐らく、多くの視聴者は「泣きゲー」のジャンルを確立したとされる麻枝准の作品である「Angel Beats!」に「泣き」や「感動」を求めただろう。多少整合性が無くとも熱量があればそれでストーリーを補う準備は出来ていたかもしれない。しかし、可能性と犠牲が内包されないこの作品の構造では、熱量だけで押し切ることはできなかった。求められた「感動」を描こうとすればするほどストーリーがズタズタに引き裂かれる悲劇的な状況に陥っていく。つまり、こういったシーンが描かれる度に、それ「以前」と「以後」がまるで別物の話のように点在していくことになる(例えば、直井が仲間に加わる以前・以後)。物語の整合性を熱量で凌駕しようとする様はMADの特徴そのものだろう。
これら構造的欠陥に端を発するストーリーの断絶、作品全体においてなされる整合性を熱量で押し切る「Angel Beats!」は一次創作の作品でありながら、二次創作のMAD動画のような特徴を意図せず持つことになる。

制作者は整合性の取れた完全な形として創作・提示しているだろう。しかし、受け手にとっては少々分かりづらいものだった。作り手側が10を描いても、受け手側にそれが10のまま伝わる訳ではないし、主観や好みが影響するので意図した形で受け取ってもらえる保障もない。どんな作品でも伝播の過程で欠損は起きる。これを上手くコントロールするのは作り手側、読み解くのは受け手側に依存するだろう。「Angel Beats!」であれば伝播過程に加え、構造によるストーリーの断片化という欠損が起こっている。コントロールの失敗は確実に起こっただろうが、それでも我々がこの欠損したストーリーを読み解くにはどうすれば良いのだろうか。ここからは受け手側の想像力の話になるので、その前に簡単な例を提示しよう。





ミロのヴィーナスは両腕が欠損している。今となってはその完全な姿を観測することは誰にも出来ない。この場合、欠損が生まれた伝播過程は時間である。人々がミロのヴィーナスに魅了されるのは、いかようにもなり得る無限の可能性を感じるからだろう。「欠損の美学」がそこにはある。つまり欠損は受け手の想像力によって補うことが出来るし、正解の無い答え探しは人々を惹き付ける。
Angel Beats!」にも欠損があることは先にも述べた。「構造的欠陥に因るストーリーの断絶」と「MAD化した作品」がそれだ。本編ではMADとしての断片が提示され、その本筋は受け手に依存するような状態がこの作品にはある【図15】。作品自体は「二次創作」的な『一次創作』で、受け手側は『一次創作』から欠落している部分を「二次創作」する必要がある。つまり、MAD的に提示される作品本編からこぼれ落ちた物語をその背景に見るのではなく、それを基に「自ら本編を構築する」必要がある。与えられた断片を自ら体系化することで作品は完成される。



物語の欠損を想像力で補うのは、行間や余白を読むのとは異なる。行間や余白は意図して書くもので、欠損はページが破かれた状態に似ている。では、失われてしまった物語を補うにはどうしたら良いか。ここで重要になるのが「外部に描かれた物語」だ。
「外部に描かれた物語」で最も代表的なのが音楽だろう。「Angel Beats!」では実に多くの楽曲が書き下ろされている。そのどれもが脚本の麻枝准による作詞・作曲のものなので、ここにも当然物語があると考えられるだろう。OPは天使、EDはゆり視点の楽曲だと言われているし、ガルデモの曲なら岩沢やユイの気持ちをそこに読むことができる。OPは、震える魂は音無からかなでへと移植されていた心臓を思わせるし、タイトルからして「私の物語はあなたの鼓動によって紡がれる」とド直球に解釈することができる。EDも、ひとり戦っていると思っていたゆりの側にはいつも愛すべきSSSのメンバーがいた、みたいなことを連想させる。
ガルデモのボーカルが二人とも先に成仏したのも「外部に描かれた物語」で欠損は補修できるという前提があるからだろう。ユイの成仏に関して、監督・脚本の対談でEDが伏線になったという驚くべき発言があったが、これも「外部に描かれた物語」なのだろう。つまり「岩沢の思い」や「ユイと日向の関係」は、EDなりガルデモの楽曲なりでそれぞれが補完し納得いく物語を作っていいということなのだろう。
音楽に関連して言えば、先に挙げたMAD的という言葉は「作品自体が音楽化している」と言い換えることも出来るだろう。盛り上がりの部分がサビで、人々はその旋律(演技・演出)や歌詞(断片化したストーリー)から壮大な背景を描き出す。ひょっとするとこの作品は音楽的想像力で紡がれたものだとも言えるのかもしれない。
こうした作品と音楽の関係に注目してみると、「Angel Beats!」は「戦隊ヒーローもの」や「休日の午前中アニメ」のような『おもちゃ』を出すことが前提として作られた作品に近いとも思える。この場合の『おもちゃ』は麻枝准の作り出す音楽ということになる。多くの人が彼の音楽を聴きたいと思っているだろうし、私自身もそうだ。つまり、感動的なシーンとそこで流れる音楽が大前提にあって、それをいかに繋ぎ合せるかという発想で作られた作品であるとも考えられる。それは望まれていることだし、決して悪いことではない。


とかく、ストーリーが断片化し別物の話のように点在しているということは、侵食によって一連の流れ(整合性)を失い個別化したストーリーもまた、それぞれが他のストーリーに対しての「外部に描かれた物語」として存在していると扱うことが出来る(【図6】の断線した赤線は、それぞれにとって外部の出来事となってしまっている)。つまり、これら「外部に描かれた物語」を条件に、いかに自分が納得し得る文脈を作り上げられるかが重要になってくる。
Angel Beats!」には、ミロのヴィーナスと同様の「欠損の美学」がある。違う点があるとすれば、欠損が伝播の過程で起こったものというよりも、自覚的に行われた物語の消去(=外部化)と、構造的欠陥により完成したときに既に欠損してしている点にあるだろう。しかし、この様々な理由で起こった欠損こそが「Angel Beats!」の魅力だとも言える。完全でないからこそ人を惹き付ける(肯定・否定含め)。仮に受け手に依存した謎の全てが明かされるようなことになれば解釈がひとつに限定されてしまい、非常に退屈な作品になることだろう。謎が明かされることを人々は望んでいない。
「なぜ?」「どうして?」は、物語を振り返って納得する点を自分で見つけ出すしかない。欠損のある「Angel Beats!」に答えはない。視聴者は話数が進むにつれ狭められていく可能性の中で、ストーリーの前後関係や外部の物語を条件にして「本編を二次創作」する。さながら、接続詞だけが書かれた穴埋め問題を解くようなものだろう。「受け手は皆が同じ物語を見ているわけではない」「同じ物語を見ることが不可能」というのは非常に面白いことだと思う。見ている物語が違うのだから、それに対する感想も批判も自分の作り上げた物語に対する評価でしかなく、他人には共有されない(されにくい)からだ。


本編を二次創作する簡単な例(振り返りの納得)
『なぜ天使は麻婆豆腐を好物として認識していなかったか』→「それは生前の音無の好物だったから」→『なぜ?』→「激辛麻婆豆腐を食べて意外とイケると言っていた。記憶を取り戻す前なので好物だとは分からなかった。」→『それと天使に何の関係が?』→「移植を受けると提供者の性格や味覚に影響される例がある。天使も知らないうちに音無の好みの影響を受けていたのだろう。」


割とどうでもいい例だが、「今思えば。」と振り返りることで納得する「条件」を見つけ、物語に整合性を作り出していく手段は分かって頂けただろう。物語の構築は受け手側に託されていて、本編はただ「条件」を提示するものとして存在している。
重要な部分(例えば「音無の演説」や「価値の転換」)は描かずに想像させる「受け手に依存した作品」であるだけに、最終回のCパートは全くもって「Angel Beats!」らしくなかった。その数秒だけで、築き上げてきた作品の魅力を一瞬で崩壊させてしまった。ああいった結末は非常にスタンダードなものだが、この作品においては蛇足に他ならない。
前回までとは別人のようになってしまった登場人物たち(一貫性の欠落)、各自が卒業していくシーン(MAD的演出)、過剰なまでの自己認証とそれに基づく他人の承認(ストーリー的特徴)という「Angel Beats!」を「Angel Beats!」たらしめた要素を満載したBパートまでは、作品のまさしく集大成とも言えるもので、制作者ですら制御不能な暴走した作品の魅力があった。しかし、Cパートはこれまで受け手に依存していた想像力を最後だけ無理やりコントロールしようとする作者側のエゴが垣間見え、作品的な魅力はあの一瞬で奪い去られてしまった。
批判的な意見の多い音無の「一緒に残ろう」というセリフは、恐らく成仏の決心は出来ているが、かなでとの別れを惜しむ「別れの切なさ」や、「人生を受け入れる様」「人間らしさ」を描いたものだろう。やはりこのシーンも、そこ「だけ」を見ると非常に良いシーンだと思う。しかし、いくらストーリーが断片化しているとは言え、視聴者にはそれまで見てきた「経験」がある。9話で記憶を取り戻した音無の価値転換は「独善的すぎる」と私も批判した(「Angel Beats!」弔鐘の音が響くとき)。いずれ思い直すだろうと考えていたが、影の登場によってうやむやになったまま話が展開するし、10話のユイの成仏の流れについての論争はネット上でかなり激しい論争を引き起こすまでに発展した。作品内でも描かれた個と個の対立がメタレベルで起こるとは制作陣も予想していなかっただろう。こうした「経験」をしている視聴者にしてみれば、音無の「一緒に残ろう」の発言は、「こいつやっぱりクズだったのか。」という意見を持つのが自然だろう。こうした誤配が起こりうる可能性すら厭わないという心持ちで作られている作品という印象を持っていただけに、音無がぐずる様子の後に描かれるCパートの裏には、彼と同じような制作側のひよりが見られた。あくまで、作品として「らしくなかった」事を言っているのであって、「救済」を批判しているわけではないことはご理解いただけていると思う。
Cパートの解釈については様々あるようだ。多くの人が現世に戻ったものと考えているようだが、死後の世界に残った音無の妄想だとする人もいる。解釈(物語構築)は人によって違って然るべきだが、「振り返りの納得」を鑑みるに少々無理のある解釈のように思える。ユイの例でも挙げたが、この作品はEDを「条件」として利用していいことは公式に認められている。EDで音無は消えたし、成仏も「仲間が気になるから」という理由で残った音無や日向の存在によって、報われた気持ちを知った後はある程度自分でコントロール出来るもののように扱われている。ラストの心電図の波形は、これまでアイキャッチで使われていたものだが、通常はピアノのラ(A)の音が鳴らされる。これは心停止のアラーム音=死を想起させるものであるし、事実、生前の世界が描かれた9話では音が鳴らない。ラストのENDと書かれたアイキャッチでも音は鳴らないので、やはり転生後の世界(現世)の出来事と捉えるのが自然だろう。*1
想像力を外部に求め、誤解すら武器にして突き進んでいた作品だけに、ラストで「条件」ではなく「答え」を提示してしまったことが残念でならない。

終わりに

【構造編】【ストーリー編】【想像力編】で振り返ってみたが「Angel Beats!」とは果たして何だったのか。
受け手によって感じることは様々だろうが、「慈しみ」「思いやり」「大切にする心」「守ること」「慈悲」「友愛」「自己愛」「恋愛」「欲望」「迷いのもと」……様々な意味を含んだ『愛』という、作品にこめられたメッセージ自体はシンプルだったと思う。
しかし、恐らく多くの人が謎解き的な意味での「正解」を求めていると思う。これは、2ちゃんねるやブログ、mixitwitterなどネットコミュニケーションが発達するにつれ、他人と同じ感想、ないし前提を持ちたいと思うようになったからだろう。しかし、「Angel Beats!」はその物語を個に依存するので、そうした印象の共有をするのが非常に難しい状況にある。しかしそれは同時に、「あなただけの作品」として完結することが出来る幸運だとも言い換えることが出来る。
想像力を作品の外部に求め、本編では「条件」だけを提示し各人で物語を構築させる「Angel Beats!」は、作品そのものよりもそこで得られる体験が面白い。


Angel Beats!」は極上のドラッグアニメである。


※タイトルを「新たな想像力の可能性」から「想像力の方向性」に変更。(2010.7/3)

*1:あくまで私個人の「納得」なので、万人に共感されることでないことは承知済みです。是非あなただけの「物語」を作ってみてください。