「あずにゃん問題」は起こってるけど、起こってない。

俗に言う「あずにゃん問題」は、「三年生組が卒業した後、梓はひとりでどうするのか。」「軽音部の存続(今後)は?」みたいな事を焦点にして起こっている訳ですが、これって起こってるけど、起こってない問題だと思うわけです。正確に言えば、「作品としては起こってはいるが、ストーリー上では言われるほどの大問題として起こってるわけではない」という感じです。
つまり、「あずにゃん問題」は見てる側によって起こる問題なのです。勿論、それは意図され起こるべくして起きたたものだと言えますが。
そんな話を#13「残暑見舞い!」のことに軽く触れつつ考えていきましょう。


あずにゃんの生き物預けられ率は異常!」


トンちゃんは夏休みの間、梓の家で面倒を見ることになったみたいです。1期でも純ちゃんから「あずにゃん2号」を預けられていました。「信頼されてる」とか、「お人好し」「利用されてる」とか人によって感じることは様々でしょうが、まぁそれはどうでもいいです。
別に部活なんだから休みの間学校に行っても怒られたりしないでしょうし、部室でみんなで勉強しても文句は言われないでしょう。お茶飲みながら、3年生は受験勉強、梓は宿題。疲れたらちょっと練習して、息抜きして帰るみたいな感じでもいい訳です。13話はお盆で学校閉まってるとか、ムギが旅行中だからやめたのかな?とも思いましたが、学校遊びに行っちゃうし、その前の話では夏フェスの打ち合わせを平沢家でしてるので、たぶん休み中はたまに集まる感じにしてる。次回の「夏期講習!」では学校に行くみたいですから、別に今回の挿話は無くてもいいはずです。でも、受験勉強をする3年生と、残された梓の話を「あえて」やった。ちょっと毛色の違う回で。
梓と視聴者に「あずにゃん問題」(梓:『ひとりになる』 視:『物語が終わる』)は起こっているわけですが、3年生組には起こってない。起こってないと言うと、彼女らが冷たく感じられてしまうかもしれないですが、たぶん3年生組は「卒業したから何?5人でバンドやるでしょ?」というメンタリティで動いているように見えます。これが、「起こってるけど、起こってない」ということです。
じゃあ、何故こんな面倒くさい現象が起きているかというと、「見てる側に勝手に話を作らせる」というのが、かなり意識的に行われているからです(ちょっと趣旨は違いますが、「Angel Beats!」のまとめ記事でも書いたことです)。ストーリー上で「大問題!」として起こるものではなく、「これ見たら、普通こう思うよね。」という感じで、ストーリー上で起こっている訳ではないことを、見てる側には必然的に感じさせるように意識されて作られている。

今後「あずにゃん問題」がストーリー上に表面化した場合への準備をさせているし、特に問題化することなく話が進むなら、「あずにゃん問題なんて杞憂に過ぎなかったんだ!よかった!!」の、どちらにも対応できる。山田監督マジ策士!


こうした受け手依存は、「演出」や「受け手の経験」を上手く利用したものでしょう。
「演出」は見れば分かること(自分の感じたことが正解という意味で)なので、あまり触れたくはありませんが、13話は「ストーリーに合わせた演出というよりも、演出にストーリーが引っ張られる」ような印象を受ける回でした。「あずにゃん問題」に限らず色々感じたことがあると思います。

そして「経験」。そもそも「あずにゃん問題」は、1話の新入部員関連に端を発したものではありますが、2年生組の話が描かれた5話「お留守番!」での学年による離別や、ストーリーが展開し残り時間が少なくなるにつれて、見てる方でじわじわと勝手に問題を大きくしてくれます。そうなるように意識されてる。これが、1つめの「経験」です。
そして2つめの「経験」。それが、昨年、涼宮ハルヒの憂鬱で8回繰り返された「エンドレスエイト」でしょう。梓が夢で見たり、実際に行ったりした「映画」「バイト」「プール」「夏祭り」は、どれも夏休み的ですが「エンドレスエイト」を知ってる視聴者にしてみれば、「何かおかしい……」と不穏な空気を感じますよね。恐らく「ハルヒ」と「けいおん!!」は京都アニメーションの制作というのを除いても、視聴者層がかなりかぶっていると思われます。恐らく、ここすら「経験」として利用している。
つまり、作品を見て勝手にじわじわ感じた「このままじゃ、あずにゃん一人になっちゃうんじゃね?」という経験と、「エンドレスエイト」を見た経験から、「何かヤバイことが起きそう……。」と、「あずにゃん問題」を勝手に作り上げてくれます。こうなったら普通にお茶してるだけでも、1期で散々言われた「物語がない」という点を完全に回避できますよね。「あずにゃん問題」は受け手には確実に起こっているわけですから、作品の背景に自分の物語を投影をしてくれます。
これまでの「けいおん!!」関連の投稿で私はよく「見られていることの意識」という言葉を使ってきました。これはどんな作品にも言えることではありますが、ここまでうまく作られ(作り)、皆が同じような物語を見れる(解釈の差異はありましょうが、「あずにゃん問題」は感じている)というのは凄いことだと思います。作品性格の問題なので、それが良いとも悪いとも言えませんが、「けいおん!!」が受け入れられていることは確かです。


あずにゃん問題」の解決方法としてよく挙げられるものに、3年生卒業後に「憂と純+αを迎えて新生軽音部」を作るというものがあります。確かに、花火を見ようと唯に手を引かれ、はぐれてしまった方向から憂と純が登場する「演出」は、その可能性を大いに示しています(憂がさわちゃんに改めて挨拶するなんてのもありました)。しかし、そうした「代替としての軽音部」を作品内(少なくともアニメの中で)で登場させるのかはわかりません。夢で見た内容をもとに書かれた暑中見舞いで、現実に起こりうることを阻止しようとしている「ストーリー」も描かれている訳ですし。
では、この意図的に起こされた「あずにゃん問題」は、「代替軽音部」という分かりやすい手段で解決してしまうのか、視聴者にお任せしてしまうかのどちらが望まれているのか。原作の展開にも依存するでしょうが、アニメに限って言えば、【続けるなら:「代替軽音部」】、【終わらせるなら:「お任せ」】になるでしょう。どちらにしても原作では「その後」を続けられるでしょうし。
何となくではありますが、アニメでは『「代替軽音部」の可能性を限りなく示した「お任せ」』を提示するのが、一番スッキリするような気がします。

卒業式でライブをして、卒業していく唯たち(別れ)

桜の季節。部室にひとりでいる梓(「あずにゃん問題」)

「唯センパイお元気ですか?ちゃんと大学行ってますか?」とメールを打つ梓(繋がり)

携帯を閉じると同時にドアの開く音が聞こえ、振り向く梓(「代替軽音部」の可能性)

ひとつの方法ですが、こんな感じなら「あの5人だから「けいおん!!」だよ派」にも「新しい「けいおん!!!」が見たいよ派」も納得いくんじゃないでしょうか。
ここまで書いていて難ですが、まぁどちらでもいいですね(笑)


とかく、今のところ「あずにゃん問題」は起こっているけど、起こってないという意味はわかっていただけたと思います。もう、2期ここまでの主人公は梓ですね。「けいおん!!」の世界を、梓越しに見ているから「あずにゃん問題」が起こり得た。
今後も『「演出」での「あずにゃん問題」』を『「ストーリー」で阻止する』という展開になりそうです。それがストーリー上にも表れたとき「あずにゃん問題」は確実に起こったと言えるでしょう。
きっとその時は、梓から見た下級生のモブキャラクター(頬を丸く染めた、同じような顔をした人たち)は、それぞれ個性を持った顔に見えてくる(変化する)ことになるんじゃないかな、とも思います。


おまけ
以前、「テロップの入る箇所は触らないで欲しい場面」ということを書きましたが、これはもう決まりでいいんじゃないかと思います。12話は、あずにゃんがペロペロする場面ですし、13話では、とうとうBパートまで引っ張ってプールの着替えシーンでした。「いちばんうしろの大魔王」では極大テロップでネタ化していましたし、シャフトのエンドカードなんかもそうですが、こういう取り組みは、他の作品でもどんどんやっていいんじゃないでしょうか。作品であると同時に商品でもあるわけですから。

あと、来週あたりにOPは変わるんでしょうか。ムギに寄りかかるあずにゃんのカットは「けいおん!!」のトップ5に入る名シーンだと思っているので、ちょっぴり寂しいです。もし変わったら、その時は誰の目線で描かれているかを是非見てみてください。
(参考:どうやら二次元に行った人がいるようだ。「けいおん!!」OPとテロップから見えるもの