『けいおん!!』目線の意識と演技する画面

けいおん!!』は、高校を卒業した後に楽しかったねと語られるような「美化された思い出」ではなく、今後そうなるであろう瞬間をキャラクターに体験させ、思い出になる出来事の瞬間=「今」を美化することなく描いていく作品だろう。アルバムを見返し(振り返り)ながら語られるような、ある種逆行的に選択された出来事の中を、キャラクターたちはそのことには無自覚で前進していく。

  • 目線の意識から考える「大人の不在」

劇中でのエピソードは、何年後かに「装飾された思い出」になることの元ネタだ。ただ、作品内においては思い出による演出(補正)を受けていない現在進行形の出来事として描かれているので、かつて高校生だった人が自分の「装飾された思い出」と彼女たちの「今」を比べて見てしまうと、ぬるいとか甘いと感じられてしまう。恐らくそういったラッピングされた思い出から「かくあるべき」と彼女たちを規定する、所謂「大人」の目線はこの作品(また多くの高校生)にとって非常にうっとおしいものだろう。親を含め大人が殆ど登場しないのも、こうした理由があるからなのかもしれない。「最近の若者は〜」「自分が高校生の頃は〜」「高校生なんだから、もっと〜」「お前のためを思って〜」みたいな言葉を、自分の過去の姿や思い出が装飾されたものということに無自覚で言ってしまう人(親や教師が必ずしもそうではないけれど)は、この物語に介入はおろか登場することすら出来ない。*1


たびたび話題に上がる練習や勉強の描写の少なさについては、この「思い出の元ネタ」と「大人の目線」の二つの観点から考える必要がある。前者であれば、ただ練習した勉強したよりも「普段と違う環境下で練習した(or出来なかった)」とか「みんなで勉強した(or出来なかった)」のほうが思い出になりやすいということ。
そして、後者。練習・勉強のような自分の為にやることは、やっている姿を他人に見せるためにやるものではないので、その姿が「大人」には見えにくい。いくらちゃんとやっていようとも、「練習しろ」「勉強しろ」と親や教師から言われた経験というのは大抵誰もが持っているだろう。作品内に大人的目線を導入するのはこの作品においてはタブーとなっているが、それが外部=視聴者から向けられるものであれば話は別だ。姿が見えなければ視聴者は「勉強しろよ」「練習は?」と小言も言いたくなる。これは、かつて自分が言われたことそのものだろう。かつて自分が言われたことをキャラクターに対して思わせるというのは、彼女たちが現在進行形の高校生なのだと思わせるに十分な説得力を持ち得ることになる。
つまり、練習や勉強の描写が少ないのは、「時間を経て起こる思い出化の取捨選択を現在進行形のストーリー上で行っていること」と、「あえて描かないことで得られるものを重視」した結果であって、何も努力を否定している訳ではないだろう。

  • 20話:「ライブシーンと演奏後の部室」

彼女たちは現在進行形の日常の中に居て、ひたすら前だけを見て進んでいく。もろもろの出来事が「思い出」になるのは作品が終わってからで、基本的に作中では思い出化させない。これが崩れたのが20話「またまた学祭!」ライブ後の部室での描写だ。
演奏前のやりとりやMCにおいて、最後を意識させるような言葉を頑なに言わせない( 唯「文化祭ライブも三回目」、澪「ここにいるみんなとバンドが出来て最高です」、紬「バンドって凄く楽しいです」etc)。最後を意識させてしまうと、これから描かれるもの(ライブ)が思い出になることを彼女たち自身が確信してしまい、現在進行形の出来事に「思い出による演出」がかかる事になってしまうからだ。描かれた挿話が後に思い出になることは殆ど確定事項ではあるが、キャラクターはそのことに対し自覚的には振舞えないし、振舞ってはいけない。装飾された思い出を描く作品ではないからだ。だからステージ上の5人の姿は見たままの姿で描かれ、光や背動のような演出はキャラクターの誰の目線でもないものに施される。*2



U&I」演奏時にサイリウム代わりに携帯を振る観衆の姿があるが、これも決して無関係ではない。MC時は、メンバーをカメラで撮影する観衆の姿があるが、演奏時にはそれが一転サイリウム代わりになる。写真に収まることは思い出化の確定とその自覚に繋がる演出だが、ラスト曲の演奏中にカメラ(背面)ではなく、画面(前面)がステージに向けられることで、文字通りその意味は反転し、この場面が現時点では思い出による演出を受けることのない現在進行形の出来事であることが、ステージ上の5人だけでなく講堂の生徒たちにも拡大し強調されることで、その後のシーンでの涙の意味をより深めることになる。*3だからあの場面には、観客を含め今を生きる「私たち」しかいない。



講堂全体に広がったこの最高に内輪向けなライブを、中で見るか外から見るか、「何処」で「誰」で見るかは視聴者が好きに設定出来る作りになっている。*4
唯の父親と思われる男性が、ちゃんとしたカメラを持っていることも印象的。彼はこの瞬間が思い出になることを知っている目線の持ち主として描かれている。



演奏を終えた後の部室で、彼女たちは互いに「よかった」と言いながら泣き出す。ライブを振り返る、すなわちこれまでの駆け抜けてきた一回性の出来事を自分の中で思い出にしてしまったことで、それらがアルバムに貼られた不変の出来事に変質してしまう=ルールが崩れるから泣く。だから、あの場面で彼女たちは泣いていい。*5

以前のエントリーで書いた「あずにゃん問題」についても、この20話と次の21話でほとんど解消されたと言える。そもそもこの話題は、3年生の卒業による関係性の断絶、去る者と残される者の構図の様なネガティブスパイラルの連続を根底に派生するもので、「卒業しちゃうの寂しいよね」ということとは関係ない。それが寂しいのは当たり前だから。
20話、演奏後の部室での「皆さんと演奏できて幸せです」というセリフは、「でした」ではなく「です」であることで、「5人の関係継続の担保」と「梓自身の継続性の自覚」を端的に表す強い言葉になる。部室から講堂に向かう場面で描かれた梓のPOVは「あずにゃん問題」を強烈に想起させるものだが、それを含め、これまで表立っては描かれずに裏で走っていた懸念を解消させる一言だったと言える。また、リードギターが梓に変わっていたのも印象的だ。
21話の卒業写真撮影の予行練習の件では、撮影を翌日にし、わざわざ律がデジカメを持ってくることになる。3年生4人を撮るのだから撮影者は当然梓になるだろう。それならば、その場で梓の携帯カメラで練習すればいいし、むしろその方が女子高生っぽい。でもしない。当然これは、梓のカメラに4人を写真に収めることで4人と梓の関係が思い出として確定され、残される者の強調すなわち「あずにゃん問題」を不必要に再燃させてしまうことになることになるからだろう。これについては、また別の意味合いも含んだ場面でもあるので、次項で。


このように『けいおん!!』では、作品内部や外部からの目線・視線へ自然に意識が行く、または利用するような作りがなされている。これは監督である山田尚子さんのコンテの特徴*6でもあるから当然と言えば当然なのだが、詳しく書くのはまた別の機会に譲り、今回は21話の印象的なレイアウトを振り返ることで、このエントリーをまとめにする。この回のコンテ・演出は北之原孝將さん。

  • 21話:「縦と横のもつ意味」

ほとんど解消された「あずにゃん問題」ではあるが、その匂いは依然として残る。その匂わせ方と解消の役目を担うのが、画面構成とりわけ縦(↑)と横(←→)の印象性だろう。
憂から卒業アルバムの写真撮影があることを聞き、ふと思いを巡らせる場面は←→の印象。その後、3年生の教室に向かい、その姿を見るときは↑、口角は上がるが眉毛は下がる思慮深げな表情の場面は、廊下の←→と窓越えの↑でその複雑な心境を印象付ける。



基本的にこの挿話では、横:負・不安や悩み/縦:正・安心や決断のように、縦で横を打ち破るような意味合いをもつ。
運動部の3年生が引退した寂しげなグラウンドは、←向きに走る生徒の印象も手伝い横、しかし不安になった梓が走りだす廊下は縦だから、部室にはみんながいる。部室も縦。



写真撮影は縦(向けるカメラと向けられる被写体の主観で)で行われるから、4人そして梓は徐々にそれぞれの決意を固め始める。これが先に触れた別の意味合いの部分で、梓のカメラに収めるのではなく、あくまで撮影者ということでイメージを相殺しつつも、構図の印象、この場合は縦の決断を繰り返すことで、梓の中で起こった「あずにゃん問題」を、梓自身によって解消させる(できる)という意味合いも帯びている。勿論これだけでなく、脚本上でも部室でのやりとりで浮き彫りになる5人の相互補助性を描くことで不安の解消は図られている。


澪が推薦について悩んでいる場面は、その進行方向と後ろに塀、家壁、山があることも手伝い横の印象。横には障害なく進めるが、縦に行くためには文字通り壁や山を越えなくてはならない。推薦を断りみんなと勉強して同じ大学に行きたいと告げる場面は、縦の印象だが不安げな印象を受ける。次にカメラが切り替わると後ろに階段があるのが秀逸。澪の決意への不安を引き続き描きつつも、澪の後ろに上(縦)に上る階段が3人には見えることで、この決意が4人にとって良いこと、4人だから共に乗り越えていくことができるものだというイメージを与える。



この後の下校の風景は縦のPANと奥行き(縦)のある構図でそれぞれの決意が固まったことを、直後の川も縦でその決意がやがて広い海に出ること、ラストの空も同様に、今はまだ窓越しで全てが見渡せるわけではないが、これからの彼女たちの世界が広がっていく幸福な未来をイメージさせる。



校舎の外観も、日が変わったという意味だけでなく、「3年生が卒業すること(紅葉)への梓の思慮」「澪の今後への悩み」「5人の決意」を想起させるものになっているだろう。



  • おわりに

原作と共に近づく最終回を前に、語りかける画面と対話し、どの目線、誰の視点で作品と向き合うかを考えてみるのもいいのかもしれない。

*1:さわ子は、かつての自分も彼女たち5人と似たようなものだったと認識しているキャラだから登場できる。

*2:ステージ上なら律・紬より奥、向かって澪より左。梓の右には和がいるが彼女も「3年間頑張ってきたので侮ってはならない法則」から、右ならちょっと上から。とにかく、5人(と観客)の見た画は、補正なしの見たままの姿しか描けない。

*3:反転という意味では、唯が「最後の曲」といった後に携帯の向きが逆になるが意味深い。

*4:軽音部5人の誰か(内)/さわ子・和・憂・純(内と中)/クラスメイト、観客(中)//見守ってきた自分(内的な外)//あくまで視聴者としての自分(外)etc

*5:最後と思い出は必ずしもイコールではない。この場合も、先に進む決心を固める段階に入ったということだから、これは最終回じゃない。

*6:涼宮ハルヒの憂鬱』20話「涼宮ハルヒの溜息?」のハルヒキョンが部室に入ってから、ハルヒが出て行くまでの一連のシーンにおける視線交差の連続性や、『けいおん!』番外編「冬の日!」の交わらない視線とその回復が分かりやすい。